はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

羽虫群 批評会 ふんわりレポ1

 わーすごい!と思っているあいだにあれよあれよと終わってしまいました。

  正直自分の記憶の精度に自信がありませんが、書かないと無かったことになってしまう気がするので…

 

穂村弘さん

 「これでだめならもう仕方がないというくらいよくできた歌集」という、歌集としての完成度の高さへの指摘を皮切りに、「だめな自分(作中主体)」とその絶望が、時にはユーモアのある文体で描かれているという大観を示される。 

 〇「汚い猫を美しく撮る(だめな自分をいい感じにとらえた短歌を作る)」

 〇歌に登場する「妹」の存在から、「リアリティが根にある作家性で非実在の妹を描くあやうさ」の指摘

 〇↑を受けた「虫武さんには妹がおらず愛人と奥さんがいてほしい」との発言(リアリティを追求した作風でありながら読者が信じ込むほどの精度で空想を歌に盛り込むような、したたかな作歌態度であってほしいということか)。

 〇ユーモアは、作者と対象物との距離感が適切だから起こる(?)←うろ覚えです

 

大森静佳さん

 「虫武さんの個性は、近代短歌の伝統である生きづらさを完全口語でこなしているところ」としたうえで、神楽岡歌会の思い出などを交えつつ虫武さんの特徴を挙げてくださった。

 〇モノのあざやかな存在感

 〇ここは譲れないという自負のある歌の迫力

 〇外の世界を描写した歌の、他人の人生を肯定的に捉えた清らかさ

 〇疑問形の多さ(いつまでおれはおれなんだろう、手足はどこへどうすればいい、など。他者へ自分を開いて見せるような手つき)

 

染野太朗さん

 「解説に書かれた『内向性』を念頭に読んでいいのか」という問題提起が示された。穂村さんが「あたたかい歌会、みんなに愛される歌人」と述べておられたのに対し、そういった作者像を疑いながら読むという視線だった。

 〇内向的という言葉ではくくれない一面(これは諸刃の剣)

  ・ぶっきらぼうな口調、自暴自棄な様子、他人を冷ややかに見る視線

  ・家族ができ、状況が変わってなお「何ももっていない」という態度

   (読者を誘導しているとみるか、得難い個性とみるか・・・)

 〇リフレイン、句またがり、一字空けなどを巧みに用いて印象を操作する技術力の高さ

 

魚村晋太郎さん

 「司会なので・・・」と仰りながらも、レジュメに載せた歌をもとに、虫武さんの歌で印象的な点を挙げてくださった。

 〇SNS的な、そこにいない他者に呼びかける口調

 〇オマージュ的、本歌取りを巧みかつ多く用いている

 〇人間的な成長が徐々にわかる構成や、他者への視線の変化が歌集のなかで順番に表れる構成の巧みさ

 

熱い議論 

その後、魚村さんが論点を適宜整理しつつ、パネラーの皆さんに意見を求めてくださった。

 〇ネットとか、投稿とか、結社とか、前衛とかリアリティとかのゾーニング

・誰もが虫武さんをゾーニングマッピングしたがるが、うまくいかない。

  ・乱暴な決めつけを核にした歌、描写に徹した歌など、多様な作品があるので、安易なゾーニングからするりと逃れるから。

  ・別のジャンルで鍛えられたセンスを持ち込むことで、閉ざされた歌壇に外の空気を輸入している。

  〇読者にかわいがられるということ

  ・好意的に読まれすぎるのはあやうい。

  ・かわいいだけにしては作り込まれていて巧み。

  〇商業として生き抜くということ

  ・別ジャンルの取り入れ、愛唱性の高さ、かわいがられる作者像など、歌壇の外にひらかれていく可能性のある歌集。解説の石川さんも、それを念頭に置いて、内向的な作中主体が他者を獲得するストーリー(短歌に親しまない人も味わえる)として編まれた面を解説で強調されたのではないか。

  ・ゾーニングされないのが虫武さんの強みだが、結社に入らず、ゾーニングもできなければ、商業として生き残るは修羅の道。どう切り拓いていくか。

 

会場から(道券の印象に残ったもの)

 〇加藤治郎さん

  ・リアリティの虫武、前衛短歌(塚本邦雄寺山修司、春日井建)とは違うところにいる

  ・しかし、春日井建の影響の窺える歌もある

  ・美意識、美学の方面へと進む可能性を秘めた歌人

 〇楠誓英さん

  ・モノへの仮託がしっかりとしている

  ・若い人にありがちな「で?何が言いたいの?」感がないのが最大の魅力

  ・主題「だめな自分」に寄りすぎているが、外界へタフに開かれている。

   この主題以外の歌に次の展望がある。

  ・自意識により過ぎない自由さも魅力

 〇本多真弓(響乃)さん

  ・ストーリーを強調しすぎないところに、読者への信頼がかんじられる(ここまで言えばわかってもらえるはず)

  ・読者が立ち止まって考える時間が長い歌が多い

 

 羽虫群 批評会 ふんわりレポ2も書きました。つづく!

ラ・ラ・ランドよかった。

ラ・ラ・ランドのラスト「あり」派と「なし」派】

 私のラ・ラ・ランドの初見の感想は、「よかった。2人の夢も叶ってハッピーエンドだった。あったかもしれない輝かしい恋の様子も美しくて最高だった」だった。

 しかし、ラ・ラ・ランドのラストについて、私の周囲では「あれはない。つらすぎる」という声が上がった。「なし」派の人の言い分としては、「2人が結ばれてハッピーエンドでいいじゃないか、なぜわざわざ引き裂くんだ」、「ミアはなぜセブ以外の男と結婚したのか」、「セブくん可哀想」といったものだった。

 この違いはどこからくるのか。

 

【「青春」とその終わりを描いたラ・ラ・ランド

 ラ・ラ・ランドでは、叶う可能性の少ない夢を追い、人々は「スターの街」に集まる。「勇気か狂気か、これからわかる」、「夢見る愚か者に祝福を」、「群衆の中のだれかが私を見つけてくれる」、歌として語られるこれらの言葉がそれを物語る。

 ここでは、「夢見る愚か者」として目標に向かって打ち込む期間を「青春」と呼びたい。夢を追うことを諦め、あるいは夢を達成することで夢を「追う」必要のなくなった時、「青春」は終わる。

 セブはミアより先に自分の夢(伝統的なジャズを再び盛り上げ、自分好みの曲が演奏される店を開く)をあきらめ、ロックバンドのピアニストとしての道を歩み始める。セブの「青春」は、実質ここで終わっている。一方、自分の夢を諦めきれないミアは、そんなセブを受け入れられない。これは「青春」から抜け出た者と、まだ渦中にある者の感覚の相違があらわになるシーンと言える。

 結局、ミアは自分も俳優としての仕事を得る。彼女の「青春」はここで終わりだ。しかし、彼女はこの時点ではまだそれに気付いておらず、セブにまつわる日々に、すなわち「青春」に留まろうとする。一方セブは、セブとよりを戻して元の生活に戻りたいミアに対し、仕事に集中するように告げる。まだ「青春」の中にいるつもりのミアを、セブはやんわりと否定し、ミアの「青春」を終わらせたのだ。

2人にとって、2人で暮らした日々は輝かしい「青春」そのもので、互いが互いの「青春」の象徴だった。つまり、2人が愛したのは相手というより、ともに過ごした「青春」の日々だったのではないか。

 そう考えると、最後のシーンはうつくしい「青春」への懐古以外の何物でもない。大成功をおさめ、他の人と結ばれたミアは、偶然セブの店に立ち寄り、2人は5年ぶりに再会する。その時に流れる回想のような映像は、2人の恋人時代を振り返ったもののようだが、細かいところがよりロマンチックに改変されている。これは、一般的に後から振り返った若い頃の思い出が、より美しいもののように脚色されることと無関係ではないだろう。

 

角田光代が描く「青春」を断ち切ったときにあらわれる希望】

 私がラ・ラ・ランドを観ているあいだ、2人の夢は叶わないだろうと心の準備をしていた。夢を諦め、すべてを失った2人が、ラストではそれでも生きていくしかないと決意を新たにするのだろう…そう思ってなりゆきを見守っていたため、ミアが俳優として成功をしたのも、セブが店を開いていたのも拍子抜けだった。

 私がそのような鑑賞をしたのは、「薄闇シルエット(角田光代)」が念頭にあったからかもしれない。

 

私はそういった地点から点ではなく線を引っ張ってきていて、それをたどればいつでもそこに戻れると思っている。もう誰も、そんなところにはいないのに。(角田光代「薄闇シルエット」)

 

 この作品では、過去への未練が印象的に描かれる。「薄闇シルエット」の主人公のハナは、周囲に比べて自分だけが取り残されていくように感じている。自分が気に入らないと言って別れた元恋人は、ダサくなりながらも幸せな結婚をする。袂を分かった共同経営者は、ハナがダサいといって嫌った事業に手を出して成功をおさめ、結婚相手も見つける。一方ハナは、嫌なことをやらないための努力だけで年齢を重ねる。ここでは、ハナだけがダサくない自分でいたいという夢を追う「青春」のただ中にいるのだ。彼らは、いつまでもハナの思い出の中の彼らでいてはくれず、彼女を置いて前へと進んでいく。ハナはなんとか自分も前に進もうとするが、何度か手痛い失敗をし、それでも前に進むしかないと決意するところで物語は終わる。ここで初めて、ハナもようやく「青春」の終わりを迎えるのだ。

 「青春」を引きずる者に希望はない。輝かしい過去に戻りたいと後ろ髪を引かれながらも、断ち切って厳しい現実を受け入れ、そこで生きようと決意するとき、はじめて未来は立ちあらわれる。戻れないことは悲しいことではないのだ。戻れないことを受け入れ、前に進むことを決めた時、そこから見える景色はいつも薄闇に包まれている。闇が薄いのは、希望の光が差しているからだ。

 

ラ・ラ・ランドのラストが描いた夢の続き

 ラ・ラ・ランドのラストを見てつらさを感じるのは、セブとミアの過ごした「青春」があまりに輝かしく、そこに戻れないのが悲しいからだろう。ただ、その輝かしさだけに着目して、つらいラストだと断じてしまうのはもったいない。あれでよかったのだ。美しい過去を、「青春」を、かなぐり捨てて進まなければ、2人は夢を掴めなかった。美しく脚色した過去をゆっくり思い出す余裕があるのがその証拠だ。彼らはいま、夢の続きを生きていて、戻れない過去をほろ苦く思いだせるほど幸せなのだ。

自己紹介

はじめまして、道券はなです。

ぴーたーぱん子とかいちのせとかだったこともあります。

短歌では、未來短歌会とかばん関西に参加させていただいています。

小説では、へんりさんとごきげん創作ユニット「あっぱれ!」をしています。

 

Twitterによくいるのでこちらもぜひ。

道券はな @peter_pan_co

あっぱれ! @henrypanko14

 

やったこと

(ぱん子名義)

・2017年9月「あっぱれ!vol.2(あっぱれ!)」発行

・2016年9月「あっぱれ!vol.1(あっぱれ!)」発行

(いちのせ名義)

・2013年4月「瞰空」発行、参加

・2011年11月「出版甲子園」決勝大会出場

 

載せていただいたもの

(道券はな名義)

・2017年5月「破調アンソロジー藪(発行:とみいえひろこさま)」

・2017年5月「とり文庫vol.4(発行:千原こはぎさま)」

・2017年8月「いくらたん部誌「夕化粧」二周年記念号」

・2017年8月「Re:短歌(発行:千原こはぎさま)」

 

(ぱん子名義)

・2016年12月「山羊座ネプリ角笛(発行:知己 凛さま)」

・2016年11月「おいしい短歌(発行:千原こはぎさま)」

・2016年10月「ハロウィン短歌集HALLOWEEN JUNKIES3(発行:月丘ナイルさま)

 

(いちのせ名義)

・2014年3月「Kitchens'(発行:詩架さま)」