はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

『猫を踏まずに』よかった。1

 本多真弓さんの第1歌集『猫を踏まずに』、付箋数がえらいことになったけれどすみずみまでじっくり読みました。がんばって間引いたけれど選べなかったので長くなってしまいました。

 

【「あえて」の凄み】

  残業の夜はいろいろ買つてきて食べてゐるプラスチック以外を

  生きてゐて明日も働く前提で引継ぎはせずみな帰りゆく

  わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

 

 1首目、残業で心を荒ませながら、心と空腹を落ち着かせるために、とりあえず口に色々入れる。いろいろとはおにぎりだったりプリンだったりレッドブルだったりするが、プラスチックだけは食べない。そんなこと言われなくてもわかるけれど、それでもあえて言うことで、プラスチックまで食べてしまいそうな心身のぎりぎり感が伝わってくる。

 この歌集は、「わかりきったことをあえて」という内容が印象的だった。「あえて」言われる内容は、読者の虚をつき、現実から建前を薄皮いちまい剥がして現実の深淵みたいなものを提示し、凄みがある。

 2首目、「引継ぎはせずみな帰りゆく」のも「生きてゐて明日も働く」のもあたりまえだけれど、そう言われると、明日の出勤まで生きているかわからない我々の未来の不確実性のようなものを突き付けられ、うっと言葉に詰まってしまう。明日までに死ぬかもしれないのに引継ぎをしておかない我々の迂闊さ、能天気さ、本当にこれでいいのだろうか。

 3首目、表題になった作品。「わたくしはけふも会社へまゐります」、丁寧すぎて慇懃無礼というか、コミカルで軽やかで冗談ぽい感じがする。この軽さが歌集全体を覆っていて、恐ろしいことを言っていても、重たくならずにさらっと読める。猫はこれ以降ほとんど出てこないことから見ても、作者のタイトル選定の主眼は猫というキャッチ―な題材ではなく、こういう自分の特色、あるいは大切にしている点としての「あえて」感、そして人をくったような軽やかさを打ち出してゆくことなのかなと思った。全然違ったらごめんなさい。

 

【名づけの天才】

  ゆふやけと待ち合はせして窓際にシュレッドをする事務職われは

  降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる

  こころからあふれちぎれてゆくものをさくらさくらと呼べばゆふぐれ

  ゆふぐれてすべては舟になるまでの時間なのだといふ声がする

 

 1首目、ゆふやけと待ち合わせして窓際でシュレッドをする、美しい光景だけれど、結句では自分を事務職と規定して締めている。うつくしい光景と対比するように自分を省みたとき、自分は事務職なのだと気づく、こういうあたりまえなんだけれど改めて気づいてしまうと新鮮な気づき、定義づけ、名づけの歌に、魅力的なものがたくさんあった。

 2首目は自分を会社員と定義づけし、それを「降水と言ひかへられる雨」にたとえる。どこか感情がなくよそよそしいが、曖昧を排した正確さを求めた結果のようにも見える「降水」に、会社員の自分を重ねる比喩が鋭い。

 3首目は「こころからあふれちぎれてゆくもの」を「さくらさくら」と呼ぶ。失恋なのか仕事疲れか、もっと根源的な得体のしれない悲しみなのか、名前のつかない感情が、常に散ることとセットで考えられる「滅び」のイメージの強い桜と重ねられていて、新鮮だった。

 4首目、「すべては舟になるまでの時間」は死出の旅やノアの箱舟も想起させられる。しかしそういう読みよりもむしろ、人生はなにか大きな世界にこぎだすことの連続で、すべては船出から船出への間に過ぎないといったような、人生になんらかの定義づけをし規定しようとしているようにも見える。

 自分の心情をわかりやすく伝えるために他のものを使って表す比喩とは違い、本多さんの名づけ、定義づけは、もっと感情を排して決めつけてしまおうとする何者かの気配が感じられる。2首目の「言ひかへる」人の存在、3首目「呼ぶ」主体、4首目の「声」の主など、何か意志をもったものを介在させるからかもしれない。きっぱりと甘い情感を排し、断定してしまうことで、説得力と共感を生んでいるのかなという感じがする。

 

 「『猫は踏まずに』よかった。2」に続きます。長いと読むのしんどいよね

「真砂集」良かった    

 とりあえず まず 好きな歌を あげます。絞り込むのが大変でした。私の語彙力がゆるせばもっともっとあげたかった。

 

手をつなぎ歌ひつつゆく四歳の子の切りたての爪の鋭さ 飯ヶ谷文子「帰る場所」

 「四歳」と言われて初めて、四歳の子がどれくらいの大きさ、質感なのか、把握していない自分に気が付く。「切りたての爪の鋭さ」から、未熟な、ほどける前の果実のような、子どもという存在の硬さが想起されて好きだった。「手をつなぎ歌ひつつゆく」という出だしは「四歳の子」を導く序詞のようになめらかであたたかく、硬く冷たい結句との対比が印象的だった。

 

新幹線車内ニュースの配信元の移ろうごとく東国へ帰る 太田青磁「京に上る」

  新幹線車内ニュース、漢字とカタカナだけなので人工的な感じがして、疲れて乗り込む新幹線の乾いて無機質な感じをよく伝えている。目で追えるか追えないかの速度で移ろう「配信元」と同じ速度で、出先の京都からホームの東国へ帰る途中、空気や気分が切り替わっていく様子がおもしろかった。

 

見ず知らずの人が教えてくれました猫にも乳癌のあることを 嶋田さくらこ「猫と向日葵」

  やわらかな口語の敬体の出だしで三句までなめらかに進み、下句でぐっと踏み込んでくる。そのチャンネルの切り替えが刺さった。「猫」というやさしい言葉と「乳癌」という恐ろしい言葉の目新しい取り合わせが、逆に深刻さというか現実の色濃さを伝えてきて、一瞬遅れて伝わってくる主体の狼狽えが深くて印象的だった。

 

ダンプからこぼれた土を掃くための道具がなくて汚れた道路 「日々の作業は」瀧音幸司

  区切れがなく、すべての言葉が修飾として結句に集約されている。こういう歌はくどくなったり読んでいて息切れをしたりするとされているけれど、この歌は上から下まですうっと読み下せるのが気持ちよかった。必要な道具がない不便な感じ、そのせいで道路が汚れている居心地の悪い感じから、全体的な生きづらさというか、暗雲のようなものを想起させ、景色のことしか言っていないのにほの暗い気分が伝わって印象的だった。

 

霧雨が蓮の葉に降り目で見えるいちばんちいさな水球になる 「わたしの故郷、きみのふるさと」中家菜津子

  二句までで景色がぱっと浮かび、その後にさらに焦点が水滴にあわさっていく。景が立つ、という言葉をよく使うけれど、立った景をさらに深める方法があるのかと驚いた。霧雨が、という主語を「降り」と「水球になる」にかけてなめらかにつないでいるのもすごいし、霧雨を目で見えるいちばんちいさな水球と言い表す観察眼もすごい。

 

9巻は貸し出し中なり子とわれもフランクフルトに足止めを食う 「釣り針」永田紅

  「9巻は貸し出し中なり」、唐突な出だしだが、一瞬遅れて誰もが経験したことのある事象だと思い至る。「足止めを食う」で、「アルプスの少女ハイジ」の続きが見たくて勇んで来たのに貸し出し中で、はしごを外されたような気分が鮮やかに伝わってくる。「フランクフルトに」という言葉からは、「ハイジ」に没入している感じも。主語が「われと子が」などと子主体ではなく、「われも」と並列なのが工夫されていると思う。

 

「不合格」と淡々という妹の母の目では堰切る涙 「おれのいもうと」宮嶋いつく

  一連を通し、妹との微妙な距離感が描かれていて、心うたれた。上句ではふてぶてしくさえ見える気丈な妹を描くが、下句で妹の内面と、それを見守る主体の内面に踏み込むことで、景をがらっと転換させている。その転換が鮮やかで、妹の悲しみの深さと、主体の複雑な気持ちが、より強く迫ってくる。

 

赤ちゃんに吸われたことのない乳に謝る夜もあるやわらかな 「蛸の瞳は」森笛紗あや

  赤ちゃんに、と始まると平和で楽しげな感じがするが、読み下すにつれ「乳」を赤ちゃんに吸われない自分への内省のようなものが描かれ、しんと静かな気持ちになる。結句「やわらかな」は赤ちゃんにも乳にも夜にもかかり、内省をふんわり受け止めてやさしい。この結句に救われるというか、希望という感じがする。

 

 

 引いた歌が赤ちゃんや子どもの歌が多いのは、私がまだなったことのない存在「母親」に(的外れかもしれないけれど)憧れというか、なんだか熱い視線を送っているからかもしれません。高校生の時は働く女性が出てくる小説ばかり読んでいました。「自分ではないもの」の生々しい心情に触れるときの、おそれやあこがれが、私が創作物を受容するときのひとつのモチベーションになっているのかもしれません。

 「真砂集」は、そういったおそれやあこがれがたくさん詰まって刺激的でした。1975年生まれの方が集まった短歌アンソロジーということでしたが、なんというか、私が背伸びしてぎりぎり見えない世界を悠々と見渡している方々の視線をいっぱい共有してもらえたような気がします。子どもがいる、子どもがいないことを乳に謝る、買い猫の乳癌と手術に直面する、ダンプを運転する、いもうとがいる、……いろんな分野で私のやったことがないこと、できないことをやっている人がいて、その人たちに見えている世界を短歌を通じて共有してもらえて、なんだか贅沢な読書経験でした。

 素敵な歌集をありがとうございました。

現代歌人集会秋季大会 うろおぼえレポ2

4、鼎談

 尾崎左永子さん、松村正直さん、大森静佳さんで「佐藤佐太郎についてなど」という題でお話しされました。

 ・昭和十九年、女学生だった頃、戦前で本が手に入らず本屋で立ち読みした「しろたへ」に感銘を受け、ここに師事すると決める。戦後手紙を送り、歌を添削してもらった。

 ・俳句は季語を中心に読み解くが、短歌は上から下まですうと読み下す。佐太郎の歌には区切れもあまりない。二事象詠むと余計だと言われる。

 ・「立房」は、戦後まもなく、佐太郎自身が出版社をたちあげて出した歌集。短歌滅亡論には反論せず、いい歌を淡々と詠まれていた。

 ・直喩が多い。

  →曇日のすずしき風に水蓮の黄花ともしびの如く吹かるる

  →桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

  (大森さん「直喩のように感じない、言葉と心がぴったり合致している」)

 ・写生の一番もとのところだけなのに景が立つ。情景がないのにさびしいってすごい。

  →ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え舗道がその右に見ゆ

  (松村さん「ここの」の入り、「その右に」が特に効いている)

 ・砕くのがうまい。見慣れない砕き方でも、なるほどと思わせる力がある。

       →とどまらぬ時としおもひ過去(すぎゆき)は音なき谷に似つつ悲しむ

 ・単にして純(only 加えて pureの意か)、技術というか、あたまで考えるとカドが出る。感じたことをそのまま言うのがよい。こねくりまわさない

(尾崎さん「佐太郎に『かざりすぎピュッ(線で消される音?)』『書きすぎピュッ』と、どんどん消されました」)

 ・草の高さや時間の感覚を、そのことを直接言わずに表現する言葉選び

  →秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直なる雨は芝生に沈む

  →白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし

 ・晩年の切実さ、自由さ

  →珈琲を活力としてのむときに寂しく匙の鳴る音を聞く

  (尾崎さん「若い人が『寂しい』と言ってもきまらない、老いた佐太郎の切実な寂しさがここに表れている。これがあるから私は自分の歌で『寂しい』を使わない」)

  →箱根なる強羅公園にみとめたる菊科の花いはば無害先端技術

  (尾崎さん「若いと嫌味だが、死を意識してなおこんなに新しい言葉をつかえるという自由さ」)

 

 佐藤佐太郎について、血の通う人間としてのエピソードが加えられ、貴重なお話を聞かせていただいたなあと思いました。また、尾崎さんをはじめとする話者の御三方の手で佐太郎の歌が論じられ、私ひとりで読んでいるだけでは絶対にわからないような観点が次々と示されることで、深い考察の海に、どぼんと一緒に連れて行ってもらうような感じがしました。

 佐太郎は超人的な作歌センスと言語感覚を持った天才だけれど、それは、尾崎さんも仰っていた「直接、端的、単にして純」を自分に課し、それを裏切らないように努めた結果たどりついたところでもあるのかなと思いました。

 とても勉強になったし、たのしかったです。ありがとうございました。

現代歌人集会秋季大会 うろおぼえレポ1

 

 短歌についてのお話をたくさんお伺いできて楽しかったです。名前しか存じ上げない方のお顔や、久しぶりにお会いする方のお顔を拝見でき、とてもうれしかったです。

 

1、選考経過

 江畑實さんから選考経過が発表されたのですが、最初のほうでまごまごしてしまい、うろ覚えになってしまいました。印象的だったことをふんわり書きます。

 ・調べが単調だと、読者をひきつける力が弱い場合がある。

 ・韻律を整えるのは大きな魅力。かつ、それを崩す技術があれば高く評価をされる。

 ・古今東西の古典を引くことで、知的世界が広がり、歌集の世界?が豊かになる。

 ・日常の延長としてだけではなく、精神解放が期待される?題材がある、という見方もある。

・結婚出産という一大イベントにまつわる歌を唐突に始めてしまうと、損をするという見方がある。

 

2、受賞のことば

 大室ゆらぎさんの受賞のおことばから、印象的だったものを引きます。

 ・個人が「われ」を表現するものでない短歌が増えてきた。定型を選んだ時点で、「われ」を手放しているという見方もある。そういうありかたもいいのではないか。

 ・時代は、本質は、些末なものに宿る。そして、人工ではない自然のものに。

 ・うつくしいことは、たいせつなこと

 

 定型を選んだ時点で「われ」を手放している、というのが印象的でした。私は「夏野」で初めて大室さんの歌を読ませていただいたのですが、牛がいる気がする歌や、茂みで何かが死んでいる歌など、自然を脚色せず自然のまま描かれるところが好きでした。本質は些末に、そして自然に宿るというお言葉とあわせて、なんとなく、自然も定型と同じく「われ」を「われ」以外とともに大きく包む存在で、そういう大きな流れを意識されているのかなあと感じました。

 

3、基調講演

  「佐太郎短歌の真似しかた」という題で大辻隆弘さんからお話がありました。

 〇何も足さない言葉を入れる

  ・字数が足りない時、説明や想像、比喩や小主観?を入れるとよくない。クッションのような、意味のない、調べのいい、「何も足さない言葉」を入れる。

 〇助詞をいじくる

  ・佐太郎は助詞のアクロバット。助詞を、本来の使い方以外の使い方で用いる。

  ・佐太郎「感情のひだの痙攣を描くのが短歌」

  ・主語変更の際用いる「ば」を、主語が変わっていない文脈で用いている。このあてどなさに、主題のあてどない感じがよくあう。

 〇見えないものを見る

  ・誰もが見たことあるけど詠まないものを詠む

  ・自分で自分の姿はふつう見えないけれど、それをあえて詠む

  ・「自分がいない」という情景を詠む。ふつう見えない。

 

 切り口はカジュアルで、語り口も軽妙だったけれど、こうやって示されるまでの道のりは全然カジュアルでも軽妙でもなく、膨大な考察と研究の結果なのかなという感じがしました。短詩は言葉が少ないから、一字一句おろそかにせずこうやって迫っていくことで、いい歌とそうでない歌の紙一重の違いが明らかになっていくのだなと思いました。

 

エア読書会・岩尾淳子さん『岸』

前エントリに続いて、先日行われた「未來短歌会彗星集神戸歌会・田丸まひる『ピース降る』・岩尾淳子『岸』合同読書会」に参加できなかった悲しみをばねに、ここでエア読書会を開催しています。

 

岩尾淳子さん『岸』について 

1、ひそやかさ、やわらかさ

 校舎から小さく見える朝の海からっぽの男の子たち、おはよう

 起立! という少女の声に研がれたる君たちそしてふたひらの耳

 水面に舌入れてのむ首筋のやさしいかたちを獸は知らず

 

一首目、朝、登校したてでまだ眠たく、エンジンのかかっていない「からっぽ」の状態の男の子たち。作者は彼らにしゃきっとしなさいと叱咤するのでなく、おはようと優しい声掛けをする。二首目、そんな「からっぽ」の生徒らにエンジンがかかりはじめる様子を、「少女の声に研がれたる」と表している。やわらかく角を失っていた生徒らが鋭さを帯び始める前、「君たち」自身よりも先に、「ふたひらの耳」が覚醒しはじめる。三首目、一心に水を呑む獸の首筋がやさしいかたちをしているのに気づき、しかしそれに対して何か働きかけるわけでもなく、ひそやかにそれを見守るやさしい視線。

この歌集を通して、岩尾さんのお歌は、観察の緻密さと、やわらかい言葉選びが魅力的だな~と思いました。「からっぽ」の様子、「ふたひらの耳」、「首筋のやさしいかたち」など、何気ない日常の風景のなかから「詩」を見つけ、簡明でやわらかい言葉にされるところが印象的でした。

  「歌以前の作者像をかわいがられすぎると危ない」、「作者像に寄った作品作りはよくない」という話を、虫武一俊さんの歌集「羽虫群」の批評会で聞いたのですが、岩尾さんの歌集全体に通底するやわらかでおちついた作者像は、むしろ歌全体にしなやかに力を与えているように思います。掲載された歌は皆、一貫して柔らかく澄んでおり、嘘やごまかしの匂いが全くしなくて、ずっと安心して読んでいられました。

 

2、からだにひびく

 眠れない耳はさみしく牛乳の壜はひびけり火花のごとく

 目覚めれば初めて出会うあけがたの冷たい床に素足をおろす

 

  一首目、皆が寝静まった時間帯に一人起きていて感覚が鋭敏になっている。牛乳の壜が立てる音が、静寂のなかで火花のように、耳に響くように感じられる。二首目、大切な人を失った悲しみで眠り、目覚めた朝、「あけがたの冷たい床」に初めて出会ったような気がする。冷たい床に素足をおろす心許なさとおののき。

  自分の身体のなかで呼び起こされる感覚も、丁寧に見つめて歌にされます。そのため、鋭敏になって牛乳瓶の音が強烈に感じられているのが、まるで自分の耳であるかのように読者に錯覚させると思いました。この読者の「からだにひびく」感じが、私はとても印象的でした。

  

  それぞれの暮れゆく海に触れぬよう離れぬようにあなたと歩く

 

  この歌もそうで、触れぬよう離れぬようにあなたと歩く距離感のぎこちなさが捉えられていて、「それぞれの暮れゆく海」という比喩に深い実感がこもって伝わるような感じがします。

 

3、まとめ 

  全然うまく言えないのですが、私はこの歌集がとても好きです。

  どうやったらこんなに実感のこもった、読者の五感まで掘り起こすような言葉選び、題材選びができるのだろうと、読んでいる間ずっと羨ましく思っていました。こんな歌が詠めたらどんなにいいだろうと思います。ご家族の歌、ご自身の暮らしの歌にもその傾向は顕著で、透明であたたかい世界が広がり、居心地のいい場所のように感じました。私の歌はまだまだですが、岩尾さんの歌みたいに「届く」歌が詠めるようになりたいです。がんばります。

エア読書会・田丸まひるさん『ピース降る』

先日行われた「未來短歌会彗星集神戸歌会・田丸まひる『ピース降る』・岩尾淳子『岸』合同読書会」、むちゃくちゃ行きたかったのですが、諸事情で行けませんでした。悲しいので、ここで1人でエア読書会を開催したいと思います。

 

田丸まひるさん『ピース降る』について

1、目に見えないものをとらえる

こころとは紺色の鳥やわらかく抱いてひらけば羽ばたくのだから

ほどけない微熱どうしてこの熱は言葉に変化しないんだろう

ざらりおん金平糖を踏むような会話のざらりおん、ざらり、おん

 

 「ピース降る」を読ませていただいて印象深く感じたのは、比喩の巧みさと美しさでした。田丸さんの比喩からは、対象をよく理解した上で言葉を選ぼうとされている印象を受けました。

 一首目、「こころ」という目に見えないものを、「やわらかく抱いてひらけば羽ばたく」「紺色の鳥」と言い換えられています。「こころ」の、やさしく体温の通う形で触れ合えば力がみなぎる特色、清廉で奥深い感じ、軽やかに希望にむかってひらくという側面を、嚙み砕いて丁寧に捉えられたからこその比喩だと思います。美しく目新しい言葉の並びだけれど、それだけでなく、真摯な理解に努められているところが好きです。

 二首目は「言葉」への理解が深いように思います。からだのなかで「ほどけない」ままくすぶる「微熱」のような感情が、放出されて「言葉」になるんだけれど、実際の微熱は、そうやって放出されることはない。自分から出てくる言葉の在処と行方をつぶさに観察されているからこそ、出てくる比喩だと感じました。

 三首目は「会話」への着眼が印象的でした。ざらりとした手触りの会話、なめらかに心情が伝達しあえていない感触が、特徴的な擬音語「ざらりおん」と、「金平糖を踏む」という比喩によって表現されています。また、最後の「ざらり、おん」と少し余韻を残すような感じは、わかりあえていない感覚からくる不穏な未来を予測する主体の不安が表れていて、巧みだと思いました。「会話」に際してのわずかな引っかかりをよく吟味し、それがよく伝わる擬音語を創作、活用されているところがすごいと思いました。

 

2、生活のたしかな手触り

言い訳をするときいつもひんやりとシンクにもたれたがるばかもの

生活の中に輪ゴムを拾うとき憎しみのほんとうにかすかな息吹

術前のライブチケットひそませた財布を薄い金庫にしまう

 

 また、「ピース降る」では、生活をする上で目にする小物を巧みに用いて、ままならないことに対する感情を繊細に拾い上げていらっしゃるところも印象的でした。

 一首目、相手の「シンクにもたれたがる」癖を目ざとく見つけて歌にされています。言い訳をされている主体の心中は決して穏やかではないのに、その反面、「ばかもの」は「ひんやり」とした様子に見える。「言い訳をするときいつも」「シンクにもたれたがる」という相手の様子ひとつで、相手と主体の関係や互いの心情が生々しく伝わってきます。

 二首目、「輪ゴム、確かに拾う!」と声を上げそうになりました。家で自分でぶちまけたたくさんの輪ゴムも、職場でみんなに踏まれて埃だらけになった一本の輪ゴムも、拾う時の心中はハッピーでないことが多い。わざわざ拾うためにかがんだ時に、自分のなかに自分でも気づいていなかった憎しみがかすかに息づいているのを発見する…… 輪ゴムを拾うという動作が、その発見の唐突さ、確かさを裏付けています。

 三首目、楽しみにしているライブだけれど、それが終わればいよいよ不安な手術が目前に迫ってくる。そういった複雑な心境が描かれています。手術とライブチケットという取り合わせが、アンバランスなようで生活の一面を確かに捉えており、主体が背景や暮らしをもった人間として生々しく息づいているのを感じさせられました。財布という貴重品を薄くて頼りない金庫にしまう不安がまた、手術前の不安を増幅させていると思いました。

 

3、まとめ

 「ピース降る」、最初に手に取らせていただいた時、ずっと表紙を眺めて「かわいい……えっち……最高……かわいい……」みたいになっていました。しかし、読み始めると、「ピース降る」の歌は、ままならないことに対して心を乱しながらも、問い、諦め、戦い、気づく内容の歌が多く、どんどん引き込まれていきました。また、そういった重たい内容も、対象を先入観で決めつけて詠むのではなく、自分でよく観察、理解しようと奮闘されている姿が伝わってきて、本当に骨太な印象というか、かくありたいと感じました。しかも、おしゃれな小物使いや美しい言葉の並びによって、そういった骨太の歌も、するするっと読まされてしまう。それは美意識の高さからくるものでもあるし、読者のことがよく見えていて、それに応えるだけの高い技量からくるものでもあるように感じました。

私は作歌の際、わりと見たこと思ったことをばーんと投げつけてしまうので、「ピース降る」を読ませていただいて、色々なことを考えさせられました。対象を噛み砕こうと奮闘しているか、読者が見えているか、美意識があるか……。「無理むり絶対できない」と震えあがる自分をなんとかなだめながら、また歌を作っていこうという勇気をもらえました。切なくて可愛くておしゃれで泥臭くてかっこいい歌集でした。ありがとうございました。

売野機子「MAMA」よかった

 売野機子大先生の「ルポルタージュ」がとても話題になっているので、前作「MAMA」を読み返しました。「ルポルタージュ」も完結したら感想を言いたい。

 あまりうまく説明する自信がないので、とりあえず「MAMA」のすごいところを箇条書きにします。

 1、主人公にギャビーを据えたところ

 2、非現実的な設定が事実のようなものを突いているところ

 

1、ギャビーを主人公に据えたエクストリーム配役

 恩田陸の大ヒット作「蜜蜂と遠雷」は、複数の登場人物を主人公格として取り上げながら、堕ちた天才少女、栄伝亜夜を中心に据えていました。冒頭を衝撃的に飾った個性派の風間塵は、後半になるにつれ徐々に出番を減らしていきます。これは作者が、繊細で感じやすい亜夜を主人公にするほうが、読者の共感を得られると踏んだからでしょう。

 一方「MAMA」の主人公ギャビーは、寄宿舎のなかでも抜きんでて個性的な人物で、読者につけいる隙を与えません。友人たちはギャビーのあまりに壮絶な生い立ちと、圧倒的な歌の実力に、驚き、明らかに異質な空気を感じ取ります。

 ギャビーを中心に据えるメリットは、なんといっても読者への掴みでしょう。他の漫画でもそうそう見ない悲惨な過去を持つ少年の行く末が気になり、読者はあっという間に心を掴まれてしまいます。ただ、あまりに個性的すぎると、読者を振り落としてしまう。しかし売野機子は、読者の作品への関心が途切れないよう、周到な細工をしています。

  • 初めて寄宿舎の秘密(歌がうまくなりすぎると命を落とす)に触れるギャビーに、他の寮生にはない新鮮な驚きと疑念を抱かせ、読者と同じ視線に立たせる。
  • ギャビーよりさらに寄宿舎を知らないアルと同室になり、疑念を相対化する。

  これが、萩尾望都トーマの心臓」から繰り返されたギムナジウム群像劇ものを踏襲してなお、「MAMA」がどこか新鮮で現代的に感じられる理由でしょう。読者の共感を安易に受け付けないギャビーの、固く閉ざした感情が緩む瞬間を、読者は最終巻の最後まで、息を殺して待ち望むことになるのです。

 

2、自己開示、成長の比喩としての「天使になる」

 ところで、「MAMA」連載当時最も取り上げられたのは、少年たちが「天使になる」といって変声前に命を落としてしまう設定の巧みさでした。天使になる条件は謎に包まれていますが、登場人物の1人イーノクは、自分の死をもって孤独が天使を引き寄せるという結論を導きます。孤独になると理由もなく少年が死ぬ。こんな非現実的な設定が、どうしてこんなに読者の心をつかんだのでしょう。

 これは、思春期における自己の開示の比喩と考えるとわかりやすい。作中では「孤独」という言葉が使われていますが、天使になった少年らは皆、自分が抱えた秘密を大切な人に伝えることができませんでした。イーノクは家族に自分の実験を告げず、アベルは親友を失った時に抱いた疑念を、自分の変声を心待ちにしている母親に伝えることができなかった。

 大切な人に秘密を打ち明け、自己開示ができること。意識的にせよ無意識にせよ、作者はこれを思春期の試練として登場人物に与えているのです。ギャビーの母親代わりを買って出て打ち解け、ギャビーに生きづらさを打ち明けたアル、反抗していた母親と和解したラザロ、母親への誤解を解いたギャビー……生き残った少年たちは皆、親しい人への自己開示に成功しています。

 誰もが思春期でぶつかった自己開示という課題を根底に抱えているからこそ、非現実な設定もどこか切実で、読者の心に響くものになっているのです。むしろ「大人になれない(=命を落とす)」という設定の非現実性、比喩の色の強さが、かえって読者の強い実感につながっているのかもしれません

 最終巻、天使になった少年を見て、ギャビーは「子どもが天使になったら、大人はパレードをしてもいい」と呟きます。「祝福されている」からと。他人に秘密をうちあけることができず、自己開示に挫折して大人になれない子どももまた、作者は肯定的に捉えているのです。作中では大人になれない子どもは死んでしまうけれど、作品を離れれば、そんな少年たちも苦しみながら毎日を生きている。思春期の課題につまずいた子も、無事やりとげた子も、作者は等しく祝祭ムードで受け止めようとしています。

 

3、「MAMA」の新しさ 

 こうしてみていくと、「MAMA」が数々くりだした離れ業、飛び道具のすさまじさが改めて浮き彫りになりました。非現実的で、残酷で、性的な描写も厭わない、読者を選ぶ作品として作者は捉えているようですが、それだけで敬遠するのはもったいないような、実験的かつ魅力的な作品だと思います。