はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

現代歌人集会秋季大会 うろおぼえレポ2

4、鼎談

 尾崎左永子さん、松村正直さん、大森静佳さんで「佐藤佐太郎についてなど」という題でお話しされました。

 ・昭和十九年、女学生だった頃、戦前で本が手に入らず本屋で立ち読みした「しろたへ」に感銘を受け、ここに師事すると決める。戦後手紙を送り、歌を添削してもらった。

 ・俳句は季語を中心に読み解くが、短歌は上から下まですうと読み下す。佐太郎の歌には区切れもあまりない。二事象詠むと余計だと言われる。

 ・「立房」は、戦後まもなく、佐太郎自身が出版社をたちあげて出した歌集。短歌滅亡論には反論せず、いい歌を淡々と詠まれていた。

 ・直喩が多い。

  →曇日のすずしき風に水蓮の黄花ともしびの如く吹かるる

  →桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

  (大森さん「直喩のように感じない、言葉と心がぴったり合致している」)

 ・写生の一番もとのところだけなのに景が立つ。情景がないのにさびしいってすごい。

  →ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え舗道がその右に見ゆ

  (松村さん「ここの」の入り、「その右に」が特に効いている)

 ・砕くのがうまい。見慣れない砕き方でも、なるほどと思わせる力がある。

       →とどまらぬ時としおもひ過去(すぎゆき)は音なき谷に似つつ悲しむ

 ・単にして純(only 加えて pureの意か)、技術というか、あたまで考えるとカドが出る。感じたことをそのまま言うのがよい。こねくりまわさない

(尾崎さん「佐太郎に『かざりすぎピュッ(線で消される音?)』『書きすぎピュッ』と、どんどん消されました」)

 ・草の高さや時間の感覚を、そのことを直接言わずに表現する言葉選び

  →秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直なる雨は芝生に沈む

  →白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし

 ・晩年の切実さ、自由さ

  →珈琲を活力としてのむときに寂しく匙の鳴る音を聞く

  (尾崎さん「若い人が『寂しい』と言ってもきまらない、老いた佐太郎の切実な寂しさがここに表れている。これがあるから私は自分の歌で『寂しい』を使わない」)

  →箱根なる強羅公園にみとめたる菊科の花いはば無害先端技術

  (尾崎さん「若いと嫌味だが、死を意識してなおこんなに新しい言葉をつかえるという自由さ」)

 

 佐藤佐太郎について、血の通う人間としてのエピソードが加えられ、貴重なお話を聞かせていただいたなあと思いました。また、尾崎さんをはじめとする話者の御三方の手で佐太郎の歌が論じられ、私ひとりで読んでいるだけでは絶対にわからないような観点が次々と示されることで、深い考察の海に、どぼんと一緒に連れて行ってもらうような感じがしました。

 佐太郎は超人的な作歌センスと言語感覚を持った天才だけれど、それは、尾崎さんも仰っていた「直接、端的、単にして純」を自分に課し、それを裏切らないように努めた結果たどりついたところでもあるのかなと思いました。

 とても勉強になったし、たのしかったです。ありがとうございました。