はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

『猫を踏まずに』よかった。1

 本多真弓さんの第1歌集『猫を踏まずに』、付箋数がえらいことになったけれどすみずみまでじっくり読みました。がんばって間引いたけれど選べなかったので長くなってしまいました。

 

【「あえて」の凄み】

  残業の夜はいろいろ買つてきて食べてゐるプラスチック以外を

  生きてゐて明日も働く前提で引継ぎはせずみな帰りゆく

  わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

 

 1首目、残業で心を荒ませながら、心と空腹を落ち着かせるために、とりあえず口に色々入れる。いろいろとはおにぎりだったりプリンだったりレッドブルだったりするが、プラスチックだけは食べない。そんなこと言われなくてもわかるけれど、それでもあえて言うことで、プラスチックまで食べてしまいそうな心身のぎりぎり感が伝わってくる。

 この歌集は、「わかりきったことをあえて」という内容が印象的だった。「あえて」言われる内容は、読者の虚をつき、現実から建前を薄皮いちまい剥がして現実の深淵みたいなものを提示し、凄みがある。

 2首目、「引継ぎはせずみな帰りゆく」のも「生きてゐて明日も働く」のもあたりまえだけれど、そう言われると、明日の出勤まで生きているかわからない我々の未来の不確実性のようなものを突き付けられ、うっと言葉に詰まってしまう。明日までに死ぬかもしれないのに引継ぎをしておかない我々の迂闊さ、能天気さ、本当にこれでいいのだろうか。

 3首目、表題になった作品。「わたくしはけふも会社へまゐります」、丁寧すぎて慇懃無礼というか、コミカルで軽やかで冗談ぽい感じがする。この軽さが歌集全体を覆っていて、恐ろしいことを言っていても、重たくならずにさらっと読める。猫はこれ以降ほとんど出てこないことから見ても、作者のタイトル選定の主眼は猫というキャッチ―な題材ではなく、こういう自分の特色、あるいは大切にしている点としての「あえて」感、そして人をくったような軽やかさを打ち出してゆくことなのかなと思った。全然違ったらごめんなさい。

 

【名づけの天才】

  ゆふやけと待ち合はせして窓際にシュレッドをする事務職われは

  降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる

  こころからあふれちぎれてゆくものをさくらさくらと呼べばゆふぐれ

  ゆふぐれてすべては舟になるまでの時間なのだといふ声がする

 

 1首目、ゆふやけと待ち合わせして窓際でシュレッドをする、美しい光景だけれど、結句では自分を事務職と規定して締めている。うつくしい光景と対比するように自分を省みたとき、自分は事務職なのだと気づく、こういうあたりまえなんだけれど改めて気づいてしまうと新鮮な気づき、定義づけ、名づけの歌に、魅力的なものがたくさんあった。

 2首目は自分を会社員と定義づけし、それを「降水と言ひかへられる雨」にたとえる。どこか感情がなくよそよそしいが、曖昧を排した正確さを求めた結果のようにも見える「降水」に、会社員の自分を重ねる比喩が鋭い。

 3首目は「こころからあふれちぎれてゆくもの」を「さくらさくら」と呼ぶ。失恋なのか仕事疲れか、もっと根源的な得体のしれない悲しみなのか、名前のつかない感情が、常に散ることとセットで考えられる「滅び」のイメージの強い桜と重ねられていて、新鮮だった。

 4首目、「すべては舟になるまでの時間」は死出の旅やノアの箱舟も想起させられる。しかしそういう読みよりもむしろ、人生はなにか大きな世界にこぎだすことの連続で、すべては船出から船出への間に過ぎないといったような、人生になんらかの定義づけをし規定しようとしているようにも見える。

 自分の心情をわかりやすく伝えるために他のものを使って表す比喩とは違い、本多さんの名づけ、定義づけは、もっと感情を排して決めつけてしまおうとする何者かの気配が感じられる。2首目の「言ひかへる」人の存在、3首目「呼ぶ」主体、4首目の「声」の主など、何か意志をもったものを介在させるからかもしれない。きっぱりと甘い情感を排し、断定してしまうことで、説得力と共感を生んでいるのかなという感じがする。

 

 「『猫は踏まずに』よかった。2」に続きます。長いと読むのしんどいよね