はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

「宝石の国短歌」よかった

 かかり真魚さまの「宝石の国短歌 フォスフォフィライト/アンタークチサイト連作」ネプリを出させていただきました。「宝石の国」だいすきなので、短歌で二次創作をされるというそれだけでもうとってもうれしかったです

 

  ひざまずくやうな角度で手折りした枯れ花濡らす月のほほゑみ

  奪はれに慣れないでゐてくれるので好きだつたんだほそい足首

  夏花(なつか)の名くちに含めばしなやかな名残りだけ来る薄雪草(エーデルワイス

  「エーデルワイスの背中」

 

 一首目、連作としてではなくこれだけすっとさしだされても光景が目に浮かんでくるような歌で、好きでした。「ひざまずくやうな角度」っていうのが、個人差があるかもしれないけれど、角度だけでなく枯れ花のたたずまいみたいなものも想起させて広がりがあって最高と思いました。原作で氷の上でひざまずくように見えるコマがあり、それを意識されているんだと思うんですが、そういうところが二次創作の醍醐味というか、原作の魅力を踏み台にしたジャンプアップが成功していると思いました。

 二首目、これも原作を知っているとどういうことかよくわかるんだけど、知らなくても一瞬虚をつかれた後にじわじわわかってくるような感じがあって巧みだと思いました。相手の奪われることに慣れない(毅然と抗議する)ところが好きだった、という四句までですが、結句つけたしたような「ほそい足首」が意外性があって好きでした。強いようでいて意外にか弱いところが、最後に明らかにされる感じ……かかり真魚さまのアンターク観、フォスとの絆の在処がほんのり垣間見える感じがしました。

 三首目、エーデルワイスと花の名前を呟けば、しなやかだった彼が思い出され、しかし彼はもういないので名残のような記憶を懐かしむほかなく、呆然とエーデルワイスを見つめている…… 私には難しくてこれだけでは読めないけれど、原作のあの喪失感と、欄外のエーデルワイス注(彼とエーデルワイスは似ている)を足掛かりに読解してみて、初めてわかる歌として作られているように思います。こういうつくりの歌はけしからんと叱られてしまうかもしれないけれど、原作知っててわかる読者はにやにやする、こんな歌もあるんだなあと思いました。

 

 原作をよく知っている二次創作短歌を、私ははじめて読んだのですが、原作を知らなくてもじゅうぶん通じる歌があって巧みだと思いました。二次創作って原作の後追いや補完になってしまいがちだけれど、原作で描かれた人間関係や感情や場面を下敷きに、原作では描かれなかった登場人物の心情に、短歌(もしくは他媒体)形式と作者の解釈と技量を駆使して、もう一歩踏み込んでゆく姿勢が必要なんだなと気づかされました。そういう面では演劇に似ているかもしれない。

 演劇は脚本があってお芝居をするけれど、脚本を解釈するのは、脚本家とは別の演出家や俳優であることも多いし、解釈するということは書かれたことを踏み台に書かれていないことにも踏み込んでゆくことだし、お芝居は解釈した内容を自分なりに表現してアウトプットすることなので、脚本をただ口に出しているだけではお芝居にはならない。二次創作も、演劇と同じで、踏み込んだ解釈と自分なりの表現が必要とされる側面があるのかなと「エーデルワイスの背中」を読ませていただいてなんとなく考えました。

 併載?された掌編小説「refrain」も大好きでした。ふたりが仲良くじゃんけんをしている場面から、うってかわって「石は外から包まれていてはだめだった」。フォスの後悔が彼らしく表現されていて、原作の台詞だよと言われても頷いてしまいそうな、説得力のあるお言葉だと思いました。

 素敵なペーパーをありがとうございました。