はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

『ベランダでオセロ』よかった2

《佐伯紺さん「本棚」》

 

本編を終えてから観る予告編みたいにきみをわかろうとして/「予告編」佐伯紺「本棚」/『ベランダでオセロ』

 

 もうあらすじが全て理解できたうえで、改めて予告編を見る。答え合わせのような、結論があってそこにいたるまでの過程を繋いでいくような感触だ。初句から三句まででその感触を描きながら、四句目頭、句割れで唐突に、「みたいに」とそれが比喩であることが示される。だまされたような気持ちになるが、最後まで読み進めると、それが近しい人への理解の道筋を示した比喩だったということがわかる。

 結句はいいさしで、「わかろうとして」どうしたのかが明示されていないが、そのために広がりというか深みが生まれている感じがする。そんな理解の道筋を、否定的に内省しているのか、肯定的に採用しようとしているのか、私達にはわからない。本編後の予告編も、人によって好みが分かれる。取り合わせが絶妙だと感じた。

 「本棚」は、こういう、複雑な心情をなにか他の動作や状況に仮託して読む手法が印象的だった。

 

怒りには至らなくても 溶きほぐす卵にちゃんと終わりがほしい/「傘にならない」同

 

 「怒りには至らなくても」存在するかすかなわだかまりがあり、初句二句の言いさしの後の空白が、それを改めて思案するような時間の「溜め」になっている。空白の後はそのわだかまりを捉えなおしたような、代替行為の提案のような印象だが、「これで完成、終わり」と思い切れない溶き卵という曖昧な動作に明確な終わりを求める、なにかはっきりと白黒つけたい気持ちのようなものが、空白の前のわだかまりに、これ以上ないほど嵌っているように見える。さしはさまれた「ちゃんと」に、確かな手触りを求める心情が表れているのも魅力的だった。怒りってしんどいけれど、そのしんどさに負けてしまわず、ちゃんと終わりをほしがる主体は、しんどさとむきあって前向きにこれからを捉えようとしているようにも感じられた。

 こういった、楽しいだけとか悲しいだけではない複雑な心情を描きながら、それでも希望に向かっていくような姿勢が、この連作には通底しているように思われた。

 また、言葉へのこだわりというか、言葉自体を読む歌も印象的だった。

 

越えるって字を書くときは七画目にちからを込める 越えられるように/「予告編」同

 

 三句の字余りがねばりつくような力強さを出していて好きだった。ここで溜めながらも、初句から四句目「ちからを込める」まで一息に読ませる。文をここでいったん落ち着け、空白の後、結句で自分が「ちからを込める」理由を明かす。種明かしのような手つきだが、結句には主体の祈りのようなものが感じられる。何を越えたいのだろう、明示されないことで、その切実さがより深くなる。「越」という一字をこまやかに観察した感性が好きだった。また、それを書いている自分の心情まで丁寧に追い、スケッチをした技法? が好きだった。

 

『男たちを信じられない、というのはわかるよ。それに家族っていうのはもともと嘘から始まってるし、二人の人間が信頼し合えるなんていう全く馬鹿げた考えに基づいてるんだからね。だけどよ、友だちを除いたら、いったいこの世で誰をあてにできるっていうの?あたしの辞書ではそういうことになってるんだ』

豆から挽いたコーヒーを飲むどしゃぶりって言ってみたくて土砂降りを待つ/「夜道」同

 

 豆から挽いてコーヒーを飲む。初句七音は、急かされてインスタントコーヒーを飲むのではなく、時間をかけて淹れたコーヒーをゆっくり飲むような、ゆったりとした時間の長さを感じさせる。「どしゃぶり」という言葉の音の響きに親しみ、「土砂降り」を待つとき、主体のなかで音の響きと意味は完全に乖離している。その音へのほのかな愛情が繊細に描かれている。

 ジェイ・マキナニー江國香織からさらに引用したと注釈された詞書がついているが、「あたし」のこういうおしゃべりから、主体が豆から挽いたコーヒーを飲むことで、「どしゃぶり」という言葉の音の響きを愛することで、土砂降りを待つことで、遠ざかってひとりになるような感じも受ける。

 

タフだって言われてたふという響き 枕に顔をうずめる感じ/「タフ」

                          

 越、どしゃぶり、タフ、何気ない言葉にここまでこだわり、観察し、愛情深く自分の心情を重ねてゆく感じ、私は一つひとつの言葉にここまでこだわってあげられるのだろうかと胸を突かれたような気がした。短歌していると言葉が好きって大事な要素だと思うけれど、そのなかでも佐伯さんはなんだか群を抜いている感じがした。