はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

売野機子「MAMA」よかった

 売野機子大先生の「ルポルタージュ」がとても話題になっているので、前作「MAMA」を読み返しました。「ルポルタージュ」も完結したら感想を言いたい。

 あまりうまく説明する自信がないので、とりあえず「MAMA」のすごいところを箇条書きにします。

 1、主人公にギャビーを据えたところ

 2、非現実的な設定が事実のようなものを突いているところ

 

1、ギャビーを主人公に据えたエクストリーム配役

 恩田陸の大ヒット作「蜜蜂と遠雷」は、複数の登場人物を主人公格として取り上げながら、堕ちた天才少女、栄伝亜夜を中心に据えていました。冒頭を衝撃的に飾った個性派の風間塵は、後半になるにつれ徐々に出番を減らしていきます。これは作者が、繊細で感じやすい亜夜を主人公にするほうが、読者の共感を得られると踏んだからでしょう。

 一方「MAMA」の主人公ギャビーは、寄宿舎のなかでも抜きんでて個性的な人物で、読者につけいる隙を与えません。友人たちはギャビーのあまりに壮絶な生い立ちと、圧倒的な歌の実力に、驚き、明らかに異質な空気を感じ取ります。

 ギャビーを中心に据えるメリットは、なんといっても読者への掴みでしょう。他の漫画でもそうそう見ない悲惨な過去を持つ少年の行く末が気になり、読者はあっという間に心を掴まれてしまいます。ただ、あまりに個性的すぎると、読者を振り落としてしまう。しかし売野機子は、読者の作品への関心が途切れないよう、周到な細工をしています。

  • 初めて寄宿舎の秘密(歌がうまくなりすぎると命を落とす)に触れるギャビーに、他の寮生にはない新鮮な驚きと疑念を抱かせ、読者と同じ視線に立たせる。
  • ギャビーよりさらに寄宿舎を知らないアルと同室になり、疑念を相対化する。

  これが、萩尾望都トーマの心臓」から繰り返されたギムナジウム群像劇ものを踏襲してなお、「MAMA」がどこか新鮮で現代的に感じられる理由でしょう。読者の共感を安易に受け付けないギャビーの、固く閉ざした感情が緩む瞬間を、読者は最終巻の最後まで、息を殺して待ち望むことになるのです。

 

2、自己開示、成長の比喩としての「天使になる」

 ところで、「MAMA」連載当時最も取り上げられたのは、少年たちが「天使になる」といって変声前に命を落としてしまう設定の巧みさでした。天使になる条件は謎に包まれていますが、登場人物の1人イーノクは、自分の死をもって孤独が天使を引き寄せるという結論を導きます。孤独になると理由もなく少年が死ぬ。こんな非現実的な設定が、どうしてこんなに読者の心をつかんだのでしょう。

 これは、思春期における自己の開示の比喩と考えるとわかりやすい。作中では「孤独」という言葉が使われていますが、天使になった少年らは皆、自分が抱えた秘密を大切な人に伝えることができませんでした。イーノクは家族に自分の実験を告げず、アベルは親友を失った時に抱いた疑念を、自分の変声を心待ちにしている母親に伝えることができなかった。

 大切な人に秘密を打ち明け、自己開示ができること。意識的にせよ無意識にせよ、作者はこれを思春期の試練として登場人物に与えているのです。ギャビーの母親代わりを買って出て打ち解け、ギャビーに生きづらさを打ち明けたアル、反抗していた母親と和解したラザロ、母親への誤解を解いたギャビー……生き残った少年たちは皆、親しい人への自己開示に成功しています。

 誰もが思春期でぶつかった自己開示という課題を根底に抱えているからこそ、非現実な設定もどこか切実で、読者の心に響くものになっているのです。むしろ「大人になれない(=命を落とす)」という設定の非現実性、比喩の色の強さが、かえって読者の強い実感につながっているのかもしれません

 最終巻、天使になった少年を見て、ギャビーは「子どもが天使になったら、大人はパレードをしてもいい」と呟きます。「祝福されている」からと。他人に秘密をうちあけることができず、自己開示に挫折して大人になれない子どももまた、作者は肯定的に捉えているのです。作中では大人になれない子どもは死んでしまうけれど、作品を離れれば、そんな少年たちも苦しみながら毎日を生きている。思春期の課題につまずいた子も、無事やりとげた子も、作者は等しく祝祭ムードで受け止めようとしています。

 

3、「MAMA」の新しさ 

 こうしてみていくと、「MAMA」が数々くりだした離れ業、飛び道具のすさまじさが改めて浮き彫りになりました。非現実的で、残酷で、性的な描写も厭わない、読者を選ぶ作品として作者は捉えているようですが、それだけで敬遠するのはもったいないような、実験的かつ魅力的な作品だと思います。

羽虫群 批評会 ふんわりレポ2

道券なりに

 私は虫武さんとはお会いしたことはなく、ひととなり?にもあまり触れる機会がなかったので、歌集を一生懸命読み込んでの参加でした。 

 「かわいがられすぎるとあやうい」、「作者像に頼るとあやうい」という見解が出たように、『羽虫群』は、1冊を通して窺える魅力的な作者像が印象的でした。自信なさげに肩を縮め、閉塞感と絶望にあえぐ様子、さりげないユーモアや、他人への肯定的な視線を忘れない清楚さ、つつましさ……(周囲から愛される筆者ご本人と、歌集から窺える愛すべき作者像を混同していないか、私はちょっと自信がありません。理由は自分でもよくわからないけれど、そこは混同してはいけない気がします)

 この魅力は、しかし、技術の高さがあって初めて活きているというのが、批評会に参加させてただいてよくわかりました。染野さんの仰るように、『羽虫群』は多様な末尾、絶妙なてにをは、題材選びなどの技術力の高さがあります。1首1首に隙や傷がないからこそ、読者は安心して、作者の可愛さに悶えることができたのだと思いました。

 私は連作や歌集をひとまとまりとして見るのが苦手で、1首1首に対する個別の感想だけを携えて乗り込んでしまいました。しかし、みなさんの見解をお聞きして、1冊のあ歌集の印象が立ち上がってくるのが、とても刺激的でした。

 1冊を通した印象の検討と、1首1首の精細な検証の二つを平行することで、改めて『羽虫群』の魅力(愛すべき作者像と、それを支える高い技術)が立ち上がってくる。その現場に居合わせることができたということが、私にとっては何よりもありがたい批評会でした。

 あんなに大きな会を開催されるのは、大変だったと思います。主催してくださった空き家歌会の皆さま、とても勉強になるお話を聞かせてくださったパネラーのみなさま、ご一緒いただいた参加者のみなさま、素敵な歌集を作ってくださった虫武さんをはじめとする『羽虫群』を作られた方々、ありがとうございました。

 

羽虫群 批評会 ふんわりレポ1

 わーすごい!と思っているあいだにあれよあれよと終わってしまいました。

  正直自分の記憶の精度に自信がありませんが、書かないと無かったことになってしまう気がするので…

 

穂村弘さん

 「これでだめならもう仕方がないというくらいよくできた歌集」という、歌集としての完成度の高さへの指摘を皮切りに、「だめな自分(作中主体)」とその絶望が、時にはユーモアのある文体で描かれているという大観を示される。 

 〇「汚い猫を美しく撮る(だめな自分をいい感じにとらえた短歌を作る)」

 〇歌に登場する「妹」の存在から、「リアリティが根にある作家性で非実在の妹を描くあやうさ」の指摘

 〇↑を受けた「虫武さんには妹がおらず愛人と奥さんがいてほしい」との発言(リアリティを追求した作風でありながら読者が信じ込むほどの精度で空想を歌に盛り込むような、したたかな作歌態度であってほしいということか)。

 〇ユーモアは、作者と対象物との距離感が適切だから起こる(?)←うろ覚えです

 

大森静佳さん

 「虫武さんの個性は、近代短歌の伝統である生きづらさを完全口語でこなしているところ」としたうえで、神楽岡歌会の思い出などを交えつつ虫武さんの特徴を挙げてくださった。

 〇モノのあざやかな存在感

 〇ここは譲れないという自負のある歌の迫力

 〇外の世界を描写した歌の、他人の人生を肯定的に捉えた清らかさ

 〇疑問形の多さ(いつまでおれはおれなんだろう、手足はどこへどうすればいい、など。他者へ自分を開いて見せるような手つき)

 

染野太朗さん

 「解説に書かれた『内向性』を念頭に読んでいいのか」という問題提起が示された。穂村さんが「あたたかい歌会、みんなに愛される歌人」と述べておられたのに対し、そういった作者像を疑いながら読むという視線だった。

 〇内向的という言葉ではくくれない一面(これは諸刃の剣)

  ・ぶっきらぼうな口調、自暴自棄な様子、他人を冷ややかに見る視線

  ・家族ができ、状況が変わってなお「何ももっていない」という態度

   (読者を誘導しているとみるか、得難い個性とみるか・・・)

 〇リフレイン、句またがり、一字空けなどを巧みに用いて印象を操作する技術力の高さ

 

魚村晋太郎さん

 「司会なので・・・」と仰りながらも、レジュメに載せた歌をもとに、虫武さんの歌で印象的な点を挙げてくださった。

 〇SNS的な、そこにいない他者に呼びかける口調

 〇オマージュ的、本歌取りを巧みかつ多く用いている

 〇人間的な成長が徐々にわかる構成や、他者への視線の変化が歌集のなかで順番に表れる構成の巧みさ

 

熱い議論 

その後、魚村さんが論点を適宜整理しつつ、パネラーの皆さんに意見を求めてくださった。

 〇ネットとか、投稿とか、結社とか、前衛とかリアリティとかのゾーニング

・誰もが虫武さんをゾーニングマッピングしたがるが、うまくいかない。

  ・乱暴な決めつけを核にした歌、描写に徹した歌など、多様な作品があるので、安易なゾーニングからするりと逃れるから。

  ・別のジャンルで鍛えられたセンスを持ち込むことで、閉ざされた歌壇に外の空気を輸入している。

  〇読者にかわいがられるということ

  ・好意的に読まれすぎるのはあやうい。

  ・かわいいだけにしては作り込まれていて巧み。

  〇商業として生き抜くということ

  ・別ジャンルの取り入れ、愛唱性の高さ、かわいがられる作者像など、歌壇の外にひらかれていく可能性のある歌集。解説の石川さんも、それを念頭に置いて、内向的な作中主体が他者を獲得するストーリー(短歌に親しまない人も味わえる)として編まれた面を解説で強調されたのではないか。

  ・ゾーニングされないのが虫武さんの強みだが、結社に入らず、ゾーニングもできなければ、商業として生き残るは修羅の道。どう切り拓いていくか。

 

会場から(道券の印象に残ったもの)

 〇加藤治郎さん

  ・リアリティの虫武、前衛短歌(塚本邦雄寺山修司、春日井建)とは違うところにいる

  ・しかし、春日井建の影響の窺える歌もある

  ・美意識、美学の方面へと進む可能性を秘めた歌人

 〇楠誓英さん

  ・モノへの仮託がしっかりとしている

  ・若い人にありがちな「で?何が言いたいの?」感がないのが最大の魅力

  ・主題「だめな自分」に寄りすぎているが、外界へタフに開かれている。

   この主題以外の歌に次の展望がある。

  ・自意識により過ぎない自由さも魅力

 〇本多真弓(響乃)さん

  ・ストーリーを強調しすぎないところに、読者への信頼がかんじられる(ここまで言えばわかってもらえるはず)

  ・読者が立ち止まって考える時間が長い歌が多い

 

 羽虫群 批評会 ふんわりレポ2も書きました。つづく!

ラ・ラ・ランドよかった。

ラ・ラ・ランドのラスト「あり」派と「なし」派】

 私のラ・ラ・ランドの初見の感想は、「よかった。2人の夢も叶ってハッピーエンドだった。あったかもしれない輝かしい恋の様子も美しくて最高だった」だった。

 しかし、ラ・ラ・ランドのラストについて、私の周囲では「あれはない。つらすぎる」という声が上がった。「なし」派の人の言い分としては、「2人が結ばれてハッピーエンドでいいじゃないか、なぜわざわざ引き裂くんだ」、「ミアはなぜセブ以外の男と結婚したのか」、「セブくん可哀想」といったものだった。

 この違いはどこからくるのか。

 

【「青春」とその終わりを描いたラ・ラ・ランド

 ラ・ラ・ランドでは、叶う可能性の少ない夢を追い、人々は「スターの街」に集まる。「勇気か狂気か、これからわかる」、「夢見る愚か者に祝福を」、「群衆の中のだれかが私を見つけてくれる」、歌として語られるこれらの言葉がそれを物語る。

 ここでは、「夢見る愚か者」として目標に向かって打ち込む期間を「青春」と呼びたい。夢を追うことを諦め、あるいは夢を達成することで夢を「追う」必要のなくなった時、「青春」は終わる。

 セブはミアより先に自分の夢(伝統的なジャズを再び盛り上げ、自分好みの曲が演奏される店を開く)をあきらめ、ロックバンドのピアニストとしての道を歩み始める。セブの「青春」は、実質ここで終わっている。一方、自分の夢を諦めきれないミアは、そんなセブを受け入れられない。これは「青春」から抜け出た者と、まだ渦中にある者の感覚の相違があらわになるシーンと言える。

 結局、ミアは自分も俳優としての仕事を得る。彼女の「青春」はここで終わりだ。しかし、彼女はこの時点ではまだそれに気付いておらず、セブにまつわる日々に、すなわち「青春」に留まろうとする。一方セブは、セブとよりを戻して元の生活に戻りたいミアに対し、仕事に集中するように告げる。まだ「青春」の中にいるつもりのミアを、セブはやんわりと否定し、ミアの「青春」を終わらせたのだ。

2人にとって、2人で暮らした日々は輝かしい「青春」そのもので、互いが互いの「青春」の象徴だった。つまり、2人が愛したのは相手というより、ともに過ごした「青春」の日々だったのではないか。

 そう考えると、最後のシーンはうつくしい「青春」への懐古以外の何物でもない。大成功をおさめ、他の人と結ばれたミアは、偶然セブの店に立ち寄り、2人は5年ぶりに再会する。その時に流れる回想のような映像は、2人の恋人時代を振り返ったもののようだが、細かいところがよりロマンチックに改変されている。これは、一般的に後から振り返った若い頃の思い出が、より美しいもののように脚色されることと無関係ではないだろう。

 

角田光代が描く「青春」を断ち切ったときにあらわれる希望】

 私がラ・ラ・ランドを観ているあいだ、2人の夢は叶わないだろうと心の準備をしていた。夢を諦め、すべてを失った2人が、ラストではそれでも生きていくしかないと決意を新たにするのだろう…そう思ってなりゆきを見守っていたため、ミアが俳優として成功をしたのも、セブが店を開いていたのも拍子抜けだった。

 私がそのような鑑賞をしたのは、「薄闇シルエット(角田光代)」が念頭にあったからかもしれない。

 

私はそういった地点から点ではなく線を引っ張ってきていて、それをたどればいつでもそこに戻れると思っている。もう誰も、そんなところにはいないのに。(角田光代「薄闇シルエット」)

 

 この作品では、過去への未練が印象的に描かれる。「薄闇シルエット」の主人公のハナは、周囲に比べて自分だけが取り残されていくように感じている。自分が気に入らないと言って別れた元恋人は、ダサくなりながらも幸せな結婚をする。袂を分かった共同経営者は、ハナがダサいといって嫌った事業に手を出して成功をおさめ、結婚相手も見つける。一方ハナは、嫌なことをやらないための努力だけで年齢を重ねる。ここでは、ハナだけがダサくない自分でいたいという夢を追う「青春」のただ中にいるのだ。彼らは、いつまでもハナの思い出の中の彼らでいてはくれず、彼女を置いて前へと進んでいく。ハナはなんとか自分も前に進もうとするが、何度か手痛い失敗をし、それでも前に進むしかないと決意するところで物語は終わる。ここで初めて、ハナもようやく「青春」の終わりを迎えるのだ。

 「青春」を引きずる者に希望はない。輝かしい過去に戻りたいと後ろ髪を引かれながらも、断ち切って厳しい現実を受け入れ、そこで生きようと決意するとき、はじめて未来は立ちあらわれる。戻れないことは悲しいことではないのだ。戻れないことを受け入れ、前に進むことを決めた時、そこから見える景色はいつも薄闇に包まれている。闇が薄いのは、希望の光が差しているからだ。

 

ラ・ラ・ランドのラストが描いた夢の続き

 ラ・ラ・ランドのラストを見てつらさを感じるのは、セブとミアの過ごした「青春」があまりに輝かしく、そこに戻れないのが悲しいからだろう。ただ、その輝かしさだけに着目して、つらいラストだと断じてしまうのはもったいない。あれでよかったのだ。美しい過去を、「青春」を、かなぐり捨てて進まなければ、2人は夢を掴めなかった。美しく脚色した過去をゆっくり思い出す余裕があるのがその証拠だ。彼らはいま、夢の続きを生きていて、戻れない過去をほろ苦く思いだせるほど幸せなのだ。

自己紹介

はじめまして、道券はなです。

ぴーたーぱん子とかいちのせとかだったこともあります。

短歌では、未來短歌会とかばん関西に参加させていただいています。

小説では、へんりさんとごきげん創作ユニット「あっぱれ!」をしています。

 

Twitterによくいるのでこちらもぜひ。

道券はな @peter_pan_co

あっぱれ! @henrypanko14

 

やったこと

(ぱん子名義)

・2017年9月「あっぱれ!vol.2(あっぱれ!)」発行

・2016年9月「あっぱれ!vol.1(あっぱれ!)」発行

(いちのせ名義)

・2013年4月「瞰空」発行、参加

・2011年11月「出版甲子園」決勝大会出場

 

載せていただいたもの

(道券はな名義)

・2017年5月「破調アンソロジー藪(発行:とみいえひろこさま)」

・2017年5月「とり文庫vol.4(発行:千原こはぎさま)」

・2017年8月「いくらたん部誌「夕化粧」二周年記念号」

・2017年8月「Re:短歌(発行:千原こはぎさま)」

 

(ぱん子名義)

・2016年12月「山羊座ネプリ角笛(発行:知己 凛さま)」

・2016年11月「おいしい短歌(発行:千原こはぎさま)」

・2016年10月「ハロウィン短歌集HALLOWEEN JUNKIES3(発行:月丘ナイルさま)

 

(いちのせ名義)

・2014年3月「Kitchens'(発行:詩架さま)」