はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

【文舵②】猿沢池

猿沢池

 

 春日若宮おん祭りの日の猿沢池はたこ焼きやベビーカステラを求め る人の頭が黒黒とひしめいてまるでそれ自体が意思を持った生き物 のようにうねっては行き先を失って詰まり散っては凝り固まりを繰 り返しているが娘の奈緒がそこへさっさと入っていってしまったの を追わず自分は少し離れたところで待つことにした真美子はその人混みを 猿沢池を見下ろす石の大階段の上から見ているうちに娘の奈緒に似 たカーキのブルゾンを着た少女に目を留め見るとはなしに眺めてい たところ少女は友達らしき坊主頭の少年数人と短く会話をして的当 て屋の前で塊をなす彼らを押しのけるようにすり抜けた後たこ焼き の屋台の前で首を大きく伸ばして人だかりの間から様子を伺いあき らめてはふらふらと人混みのなかを戻ることも進むこともできずに 漂うというより滞っているように見えたが背の高い男が後ろから彼 女に話しかけるのを見て心臓をわしづかみされたように感じた真美 子は大階段を下りて人混みのなかへ飛び込んだところまではよかっ たものの地面に他人の足がないところを探すほうが難しいような混 雑のなか一歩踏み出すごとに違う人の腕や背中と自分の腕や腹を当 てながらめいめい別の方向を向いているのに互いの呼気を吸いあう ような空間を歩いていくも自分の思うように進むことも止まること も戻ることもできず奈緒に似た少女は奈緒ではなかったのではない かとか奈緒に話しかけた男は教員など奈緒にとって危険のない知人 なのではないかとか自分の判断に自信がなくなってきてそれでも人 混みは時に真美子の背中を驚くような乱暴さで横や前に押しのけて ゆくから歩みを止めることもスムーズに戻ることもできず頭のなか でただ奈緒奈緒と繰り返しながら真美子は歩いてゆくしかなく半ば 涙ぐんでいたところに「ママやん」 とベビーカステラの甘い匂いをさせた奈緒に声をかけられた真美子 は奈緒の若鹿のように伸びた長い首や美しい黒目を一瞬茫然と振り 仰ぐしかなかった。

 

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グウィン(大久保ゆう訳)フィルムアート社 の「第2章 句読点と文法」の〈練習問題②〉をやってみました。