はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

『猫は踏まずに』よかった。2

【くくる、くくらない】

  ワトソン君こつそりチョコをお食べだねキスしなくてもわかるよぼくは

  ほつほつとはつなつに雨おちてきてないものをねだつてもいいんだよ

  騙しゑを模写するようなぼくたちの窓を過つてゆく鳥の影

  雷鳴は真夏の鼓動ぼくたちはたひらな胸のまま生きてゆく

  きみと見る月ははつかに獣めくふたり正しく踏みはづすため

  生殖はなさずあなたとほろびゆく種族同士のことばをかはす

 

 解説には、Ⅲ部は一首一首独立し、作中主体と作者が違う作品が集まっているとあった。(わたしは作中主体と作者はちがうと思って読むので、改めて言われてはっとした)

   1首目は特に「#バレンタインBL短歌 三首」と詞書があるが、それ以降、詞書はない。BLと書いてはあるが、恋人同士の甘い囁きにも、迂闊な親しい同僚へのからかいにも読める。いずれもゼロ距離の濃厚な人間関係がなんだかこそばゆい。

   2首目の「ないものをねだつてもいいんだよ」、3首目の「騙しゑを模写するようなぼくたち」、4首目「ぼくたちはたひらかな胸のまま生きてゆく」、5首目「ふたり正しく踏みはづすため」、6首目「生殖はなさずあなたとほろびゆく」、いずれも2人の人間の濃厚な関係と心情が描かれ、名づけも定義づけもされないまま、読者に手渡されている。

 これを見て、どこで読んだかや細部はうろ覚えだが、小説家のあさのあつこが「同性同士の関係は各々オリジナルで、名前がつかない」と言っていたのを思い出した。その時は、異性同士の関係にもオリジナルで名前がつかないものはたくさんあるだろうが、何にせよ濃厚な人間関係をすべて恋愛とくくってしまうのは乱暴で、人間関係というのはそもそも、名づけや定義づけを必要としないのではないかと胸をつかれた気がした。

 本多さんのⅢ部でのこういった歌は、人間関係を乱暴にくくって名づけ、定義づけすることを慎重に避けている。これは、名前のつかないオリジナルの人間関係をあるがまま描き出そうとする、ある種の試みなのかなという感じがした。前エントリで触れたように、ふとした瞬間や感情を巧みにくくって定義づけする手腕の裏返しとしてというか、そういった「くくる、くくらない」という点に本多さんは人並外れて鋭敏な感覚をもち、またそういった部分に自覚的でいらっしゃるのではないか。

 

  ふたがれて何も話せぬくちびるのとほり雨ならもうやむところ

  抱きしめて背中をなでてゐるうちに裸眼は海をこぼしはじめる

  みづうみのもえ出す夜を待つてゐる同僚として働きながら

 

【まとめ】

 本多さんの魅力として、(1)「あえて」で現実を一枚剥がして深淵をあばくところ(2)巧みな定義づけ(3)くくられがちな事象をあえてくくらない試み、そういった感覚の鋭敏さ、の3点を挙げさせていただいた。

 加えて、甘い歌や深刻な歌を詠まれてもどこかあっさりと読ませる軽さ、その軽さでもって労働からくる疲労や手にしなかったものへの諦め、世の中への疑いなどを粘り強く詠まれるしぶとさなど、どこをとっても作者の魅力的な人柄が表れた歌集だと感じた。作者のキャラクターだけで読まれると危ないと昨年夏の「羽虫群」批評会でお聞きしたが、作者と主体を完全に切り離したⅢ部や、軽く寂しく強かなだけでなく甘くドラマチックな相聞が織り交ぜられていることで、最高のバランスが誕生していると思った。

 また、旧かな?づかいが絶妙だと感じた。職場や人間関係をゼロ距離で見つめる作風なので、口語だと密着しすぎて、高精細映像すぎて目が疲れる時みたいになる気がした。旧かなで日常から薄膜1枚隔てることで、作者の意図や心情がくっきり見えるようになっていると感じた。

 なんかもう言いたいことがありすぎて支離滅裂になってしまった感じがするのですが、素敵な歌集を読ませていただいてありがとうございました。私はふだん軽やかな歌集をあまり読まないので、『猫を踏まずに』を最初に目にしたとき「これいつもとちがうやつや」と思いました。しかし、タッチは軽いけれど、『猫を踏まずに』は人間の心情を丁寧に見つめ、緻密に描き出そうとする歌集で、読めば読むほど全部付箋を貼りたくなって、七転八倒してこんなに長い感想文を書いてしまいました。どこか冷静な自分を備えて、観察、描写、それを伝えるための効果的な構成なんかを考えてらっしゃる様子が伺えて、ちょっとふるえました。ありがとうございました。