はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

『ベランダでオセロ』よかった1

 大阪文学フリマで入手した『ベランダでオセロ』、大好きでした。連作ひとつずつ感想挙げさせていただいて、最後に全体をまとめられたらいいなあ

 一首評も連作評も不慣れなので 全体的にこう ゆ ゆるしてください ……

 

《御殿山みなみさん「テン・テン」》

 

愛知名古屋 出張の帰り

だとしてもぼくはこうして錯覚で短く見えるほうの棒です/「半纏のひも」御殿山みなみ「テン・テン」/『ベランダでオセロ』

 

 唐突な初句の「だとしても」が何に対する逆接なのかわからないが、何か相手がいて、その相手の言ったことをゆるく否定しているような、不思議な広がりがある。二句の「こうして」も何を受けているのかよくわからないけれど、なんとなくゆったりと「ぼく」に視線を集めるような「溜め」になっているような気がする。「錯覚で短く見えるほうの棒」は、同じ長さなのに、端についた「く」の字が内開きになっているせいで、つまり自分のせいではないところで短く見えてしまっている棒で、なんとなく不条理で歯がゆい感じがする。本来の長さは一緒なので騒ぎ立てるほどでもないし。「ぼく」の微妙な劣等感を言い当てる、絶妙な比喩だと思う。初句から結句にかけて、散文のように一息に流れるリズムも、力んだ感じがしなくていい。

 ここではほかにも、繊細な「ぼく」が登場する。

 

喫煙席もがまんできるしはにかみも得意なぼくの居場所がほしい/「典型」同

 

 喫煙席もがまんできる、がまんできずに席を立ってしまう人よりも忍耐があって立派だ。ただ、立ってしまう人のほうが生きやすいかもしれない。はにかみも得意、可愛げがある。ただ、はにかまないで生きる人のほうが得かもしれない。自身の立派さや可愛げを挙げながらも「ぼくの居場所がほしい」と孤立感を募らせてしまうのは、「ただ」の方の生き方と比べて損をしているという思いがあるからだろうか。有益でなさそうな長所の例が絶妙だと思った。「も」でつないでいるところが、こういった例がいくらでも出て来そうな感じを出していて、「ぼく」の孤独の影を深めている。どこか幼児が駄々をこねているような切迫感も。初句七音も、耐えかねて思わず口に出したような、強い心情の突き上げが見えて魅力的だ。

 一方で、作中の「ぼく」はそんな「ぼく」をゆるし、救おうとする。

 

あっぷあっぷの肺は認めてあげたくてマンガでわかるほうを選んだ/「シニフィエ店長」

 

 あっぷあっぷなのは肺だが自分自身でもあるのだろう。「マンガでわかる〇〇」と、「〇〇入門」が並んでいたら、より易しいマンガのほうを選ぶ。あっぷあっぷであることを認め、許し、あっぷあっぷな自分がより生きやすいように。

 そして、そういった優しさは、他者にも向く。

 

大阪御殿山 町民祭り

色落ちのはっぴは町にゆるされてださいフォントのビンゴ大会/「半纏のひも」同

 

 着古した色落ちのはっぴはみっともないが、町の人はみっともないから買い替えろとも言わず、それをゆるして(着て)ビンゴ大会を開催する。そのビンゴ大会もフォントがださくてぱっとしないが、そのだささ自体がはっぴへのゆるしにも見える。

 

朝のひかりにゆるされやうとゆるみゆく添乗員の私語ここちよし/「ちよつと良いバス、良い添乗員」同

 

 朝のひかりにゆるされようとして、ゆるんでいくのは自身だろう。バスに乗りっぱなしでこわばった身体、生きていくなかでの閉塞感、そういうものがゆるみ、ゆるされる。そして、下句の添乗員の私語をここちよいと言って、今度は自身が他人をゆるす。

 ほのかな劣等感や、他者へのどこかひねた観察を描きながらも、読んでいてどこか心地よく切ないのは、そういうやさしさ、ゆるしが通底しているからなのかなと思った。

 ゆるくとかゆったりとかなんとなくとか微妙とか、この連作を読んでいると、そんな言葉ばかり浮かんだ。あまり言葉を詰め込まず、難しい言葉も使わない。それでも、描かれている心情は鮮やかで、捉えられた景色は解像度が高い。素朴な動作を描いた歌や、比喩を中心に据えた歌も魅力的だった。

 

乗客を一掃すれば終バスはきのうを載せるだけののりもの/「典型」同

焼香の作法をぬすみ見るやうに座席のたほしかたを学べり/「ちよつと良いバス、良い添乗員」同

歩くときの視界のゆれのなんわりが世界じたいの不安なんだろう/「UFO昇天」同