はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

オワーズライナス合同読書会ゆるゆるレポ1

 「オワーズライナス合同読書会」に参加しました。白井健康さん『オワーズから始まった。』(以下『オワーズ』)、高田ほのかさん『ライナスの毛布』(以下『ライナス』)の読書会で、パネリストに彦坂美喜子さん、𠮷岡太郎さん、江畑實さん、尾崎まゆみさんがいらっしゃいました。都合のいい(なんとなく理解できた)ところしか聞いていないのと、いつものようにだらだら長くならないようだいぶ枝葉を切ったので、もしかしたら大意が異なるかもしれませんが、ご容赦ください。また、こっそり教えていただけるとありがたく思います。ゆるゆるレポートですみません。

 最初に、加藤治郎さんが「『オワーズ』も『ライナス』も、フィクションとリアルを行き来するところに共通点がある。それは歌集ならではのこと」と挨拶され、読書会が始まりました。

 

〈『オワーズ』について〉

 彦坂美喜子さんは、『オワーズ』について発言される前に、ご自身の批評の軸として

 1、言語の同時代性、時代の言語の位相を表している

 2、現代に即したテーマ性が、普遍性を持つ表現の世界を獲得しているかどうか

 の2点を挙げられました。そのうえで、2について『オワーズ』は単なる時事詠(その出来事が収束されれば終わり)に留まらず、普遍性を獲得しているという点を指摘されました。モチーフである口蹄疫による殺処分を、合理的だがしかたないよねで済まさず、人の死や自らの命の実感を通じて、牛ならいいのかというところに広げているところに特徴があると述べられました。

 また、一首評のところでは、

  •  牛の死のにおいとコーヒーの湯気など、1首のなかでの対比のあざやかさ
  •  言語表現による詩的実験(片方のみのパーレンで何らかの効果をもたらそうとするなど)
  •  一見ありえなく見えるがあるかもしれないぎりぎりにおしとどめられたイメージ(腐肉ー芳香、誠実なけもの)
  •  イメージの敷衍(眠りのイメージから砂丘の模様になだらかに移行するなど

などについて言及されました。

 

 𠮷岡太郎さんは、「われ」の少なさに言及されました。ドキュメンタリーと短歌がかみあっている歌として野樹かずみさんの『この世の底に』を挙げられ、それも「われ」がほとんど出てこないということを紹介してくださいました。野樹さんの場合は、見たものを短歌に落とし込んでいくうちに、最後に「われ」がふと叙情してしまう瞬間があり、そこを捉えているそうです。『オワーズ』は、見たものを淡々と描いているものの、「われ」はあくまで叙情せず、客観的事実のように描かれているそうです。

 また、耳たぶの血を吸う蚋や、消毒されると感じる黙祷、Re mailをする自分など、自分のことなのに外から見ているような視線も印象的だと述べられました。

 

〈『ライナス』について〉

 江畑實さんは、2冊の歌集の共通点として、価値観の敷衍化を挙げられました。『ライナス』は有名性と無名性の価値観の敷衍化、『オワーズ』は人間と動物の死生観の敷衍性がそれぞれ特徴的なのだそうです。

 加藤氏の解説から、ミカ、シュウ、ユウの3人それぞれの視点から三角関係の恋愛模様が展開する「メリーゴーゴーラウンド」という110首の連作と、詩人ふたりが掛け合いする体裁の「水銀傳説」との共通点に触れ、漫画と文学の価値観が敷衍化していると述べられました。

 また、高田さんのあとがき(切なさを描いた少女漫画はご自身のライナスの毛布である)や、ご自身の少女漫画体験(竹宮恵子風と木の詩』)から、少女漫画の切なさの正体はヘテロ(異質)セクシャルに至るまでのホモ(同質)セクシャルのせつなさ、はかなさにあるのではと述べられました。

 作品自体については、「メリーゴーゴーラウンド」は、「水銀傳説」とちがって架空の人物を用いていることから、精神的ドラマを自在に作ることができた点に言及されました。また、せつなさ、はかなさを活かすために旧かなを使ってみてはとの提案や、歌集全体の印象とは異なる一首性や私性に富む連作への指摘もありました。

 

 尾崎まゆみさんは、コミックの作者名とタイトルを一首ずつにつけた連作について、コミックへの作者なりのリスペクトが見えるが、なくてもじゅうぶん魅力的な連作として成立していると述べられました。また、唇というからだのパーツからグラスの水滴に視点が移る歌など、パーツの描写の巧みさ、「喉に力をかき集める」という表現から表情も見えるような身体感覚の鋭さ、テレホンカードやイズミヤといった物使いの巧みさ、比喩としてひかりが多用される、作品全体に通底する向日性についても言及されました。

 そのうえで、コミックから入ったのは話題性の上ではすばらしく、時代や自分が欲する手法を用いていると述べられました。また、パーツや身体感覚、もの使いの歌をもっと広げてはとの提案がありました。

 『オワーズ』も向日性がある。『オワーズ』はいのちに対する無力感と対比して、自分で自分のからだやいのちを確かめる切実な手つきが感じられる。との言及もありました。

 

〈パネリストから〉

 江畑さんから、『オワーズ』と『ライナス』の光は全く別物で、向日性とひとくくりにするのは危ない。『オワーズ』は闇のような光で、口蹄疫から原発事故の除染区域についてまで視点が及んでいる。自分や人類の罪深さ、命を奪ってしまった罪深さは、あとがきにも表れている、との指摘がありました。

 尾崎さんは、『オワーズ』の、いのちを奪ってしまったことに対しておしつぶされそうなとき、あきらめたり、しかたないと言ったりせず、客観的に見つめ、自分の体を通して確かめる、そういったところに救いを見出そうとする態度のことを自分は向日性と呼んだ。とのべられました。

 𠮷岡さんからは、『オワーズ』は、口蹄疫について勉強してほしい、わかってほしいといった願いではなく、ただ体験を投げ出しているように見える。そこが特徴で、だからこそ迫ってくる、との意見がありました。また、『ライナス』のですます調について、ですます調は四人称(会話する一人称と二人称、その会話に出てくる三人称、それを外から見ている四人称=読者)に向けられた語調で、そこに乗れなければ拒絶される恐れがあると述べられました。また、漫画に関する歌にはですます調が用いられていないという発見も報告されました。

 江畑さんは、「ですます調は会話なので、一首独立性が守れない」と述べられました。尾崎さんは「一首独立性にはさまざまな意味があり、悪い意味では歌集のなかで一首だけ浮いてしまっているときに使われたりする」と指摘されました。

 

つづく!