「君たちはどう生きるか」よかった
「君たちはどう生きるか」観てきました!
ごりごりにねたばれするので気をつけてください!
久しぶりの映画でテンション上がってポップコーンS買ったらめちゃでかくてひるむ。隣席の観客の方に絶対「こいつめちゃ食うやん」と思われていたと思う。戦時下を舞台にした冒険活劇であることと、声優さんとED曲のアーティストさんのお名前くらいを前情報として観に行きました!以下の感想に出てくる台詞などは、細かいところがあやふやです。
大叔父の「悪意に染まっていない石を積み上げてほしい」という依頼に対する、まひとの「僕はもう悪意に染まっている」という返しが印象的だった。戦時下の物語であることがここで効いてきていて、戦争という人間の大きな過ちは確かに悪意から来るものなんだけど、そこに立ち向かおうとしても、悪意に染まらない人間はいないので、違う方法を考えないといけない。まひとがその違う方法に「ともだち」を持ってきたのが、この作品の考え方なんだよなあと思った。他者との相互理解で悪意を乗り越えていけば、戦争は避けられるというメッセージ、あるいは祈りだったのかなあ。
今まさにこの地球上で行われている戦争のことを考えたとき、この祈りはあまりにささやかで、実現不可能に思えてしまって、映画が終わった瞬間、宮﨑駿監督はこうなってしまった現実に絶望しているのかとさえ思ってしまった。でも、帰って落ち着いて考えたら、ささやかでも、積み重ねていかなければいけないんだな…という感じに着地したし、宮﨑監督はずっと未来を生きる子どもやいのちを大切にしてきた人だから、信じようと思った。
後は細かいところで、
①宮﨑監督は少年少女や中年男性の冒険は描いたことがあるので、中年以降の女性の冒険も描いてほしいと思っていたから、おばあちゃんと塔に入ったときはテンションが上がったけど、いつの間にかおばあちゃんが若くなったりお守り人形になったりしていて、がっかりした。
②炎に巻かれて亡くなったヒミさんが「火はいいよ!」と言ったことに面食らったけど、火は確かに調理に使うなど生活、生命に直結する面もある。ヒミさんは火を使ってわらわらを助けているし…機械を悪い目的で使う者が悪いのであって機械自体は悪くないという物語を前提とした、ワンピース(著:尾田栄一郎)のフランキーの「存在そのものに罪はない」という台詞を思い出した。あと、宮﨑監督は「風立ちぬ」にもどこかそんな思いがあったのかな。いい飛行機を作りたかっただけなのに、戦争に使われてしまって…的な…
③新しい母親や、彼女と自分の父の間にできた弟妹を心情的に受け入れることを少年の成長として描くみたいなことは、この作品に限らずやめてあげてほしい。まひとがナツコお母さんって呼ぶところ、胸がぎゅっとした。ここで頑張るべきは子どもではなく、大人だと思うので…
④ ジブリの少女主人公っていつも周囲のために料理したり年下のきょうだいや父親の世話を焼いたり働いたりしているけれど、まひとは全然そうじゃなくて、子どもらしく生きることを許されているな…と思った。女の子も子どもらしく生きさせてあげてくれ〜。1番子どもっぽかった女の子は千尋だろうけど、まひとは千尋と同じく労働を通して、若干たくましさを獲得していたね…
⑤鳥が全体的に生々しくて、ギャアギャアうるさく迫ってくるペリカンや、鳥糞にまみれる窓枠や大人たちは、これまでになかった表現だな…と思った。カエルに覆われるほうがまだ従来のジブリっぽい。監督、通勤途中に鳥に落とし物おとされて嫌な思いとかした?
⑥1番好きな台詞は「インコにシチューにされちゃうよ♡」。字面が強い。インコは後ろ手にナイフや斧を持ってまひとの退路を塞いでいたり、捕まえたまひとの目の前で刃物を研いでウインクしたり、近年のジブリ作品には珍しく生々しい剥き出しの暴力だった。同調圧力というか、大衆心理の象徴みたいな感じなのかな。集まって声を揃えているうちに怖いこともできてしまう的な。最後積み木を崩したインコも「そんなこと(悪意のない世界)のために我々を裏切って!」みたいに言ってたもんね。面子を大切にする権力者のメタファー…
戦時下という舞台設定を鍵として読み解いていくためのメタファーの集合としての異世界だったので、こじんまりとまとまってしまっていた印象ではある。海があって船が浮いていたけれど、あの船の向こうが想像できない、あそこで世界が終わってしまっている狭さ。千と千尋の湯屋周辺もそういった役割の異世界だったけど、海の向こうにも神様の住む土地がありそうな広さがあった。
あと、青鷺があまりよくわからなかった。偽の母親を作って、触れたら溶けてしまったのは、美しいだけじゃない母親の記憶、あるいは忘却を遠回しに表現しているのかな。それと向きあうきっかけを作った憎たらしい他者に立ち向かうことが少年の自我の芽生えであり、その他者と和解することが少年の成長かつ戦争に立ち向かう唯一の方法なのか。青鷺にはちょっと思いつかないような不気味なデザインと、それを乗り越えるチャーミングさがあっただけに悔しい。いつかわかるといいな。
こういうの書いてると、批評の勉強をしてみたいなあと思う。いつも感想がとっ散らかってまとまらないから…
でも、ジブリというか宮﨑駿監督作品は本当に好きなので、新作が見られたことにシンプルな喜びがある。反戦、少年の成長、周囲からの愛情の自覚。シンプルだけど骨太なメッセージを子どもも楽しめる形で直球で投げて寄越してくれる感じ、偉大だなあと思いますよ。
【文舵②】猿沢池
春日若宮おん祭りの日の猿沢池はたこ焼きやベビーカステラを求め る人の頭が黒黒とひしめいてまるでそれ自体が意思を持った生き物 のようにうねっては行き先を失って詰まり散っては凝り固まりを繰 り返しているが娘の奈緒がそこへさっさと入っていってしまったの を追わず自分は少し離れたところで待つことにした真美子はその人混みを 猿沢池を見下ろす石の大階段の上から見ているうちに娘の奈緒に似 たカーキのブルゾンを着た少女に目を留め見るとはなしに眺めてい たところ少女は友達らしき坊主頭の少年数人と短く会話をして的当 て屋の前で塊をなす彼らを押しのけるようにすり抜けた後たこ焼き の屋台の前で首を大きく伸ばして人だかりの間から様子を伺いあき らめてはふらふらと人混みのなかを戻ることも進むこともできずに 漂うというより滞っているように見えたが背の高い男が後ろから彼 女に話しかけるのを見て心臓をわしづかみされたように感じた真美 子は大階段を下りて人混みのなかへ飛び込んだところまではよかっ たものの地面に他人の足がないところを探すほうが難しいような混 雑のなか一歩踏み出すごとに違う人の腕や背中と自分の腕や腹を当 てながらめいめい別の方向を向いているのに互いの呼気を吸いあう ような空間を歩いていくも自分の思うように進むことも止まること も戻ることもできず奈緒に似た少女は奈緒ではなかったのではない かとか奈緒に話しかけた男は教員など奈緒にとって危険のない知人 なのではないかとか自分の判断に自信がなくなってきてそれでも人 混みは時に真美子の背中を驚くような乱暴さで横や前に押しのけて ゆくから歩みを止めることもスムーズに戻ることもできず頭のなか でただ奈緒奈緒と繰り返しながら真美子は歩いてゆくしかなく半ば 涙ぐんでいたところに「ママやん」 とベビーカステラの甘い匂いをさせた奈緒に声をかけられた真美子 は奈緒の若鹿のように伸びた長い首や美しい黒目を一瞬茫然と振り 仰ぐしかなかった。
『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グウィン(大久保ゆう訳)フィルムアート社 の「第2章 句読点と文法」の〈練習問題②〉をやってみました。
【文舵1②】祈った
祈った
このバスは目的地には着かないと気がついたのは、信号待ちのバスの窓から、灰色にけぶる鴨川が見えた時だった。血の気が引くとはよく言ったもので、澤井はその時、 嫌な冷えに身体の芯が軋むのを感じた。澤井は目的地行きの正しいバスを調べ、 仕事相手に謝罪のメッセージを打ち、 降車ボタンを押し、膝に乗せていた上着に袖を通した。あとは祈った。 ひたすらに祈った。バスを降りた時も、 四車線の道路を強気で渡り終えた時も、 目的地行きのバスが来るバス停に立った時も、澤井は祈った。きりきりと祈った。風に揉まれた銀杏の木が、 あたりをざあっと黄色く染める。 水たまりを轢いてバスが近づいてくる。 遅刻するのはわかっていた。鼻の奥がつうと痛むのを感じながら、澤井は祈った。 胃の腑がねじれてちぎれそうなくらい祈った。 闇雲に祈った。ただただ祈った。できるだけ早く、1秒でも早く、目的地に着きますように。
『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グウィン(大久保ゆう訳)フィルムアート社 の「第1章自分の文のひびき」の〈練習問題②〉をやってみました。強烈な感情を抱いている人物のほうでやりました。
【文舵1】二人三脚
二人三脚
私の足首と自分の足首を襷で結んでいるアヤちゃんのつむじに、 私は「彼氏できた?」って聞きたかった。やめたのは、 二人三脚が始まる直前に聞くべきことではないと思ったからだ。 昨日二人で帰る途中、 なぜか卓球部のタナカが割って入ってきた時も、 私は聞きたかった。「なんか最近タナカと仲良くない?」って。私の最寄り駅で私が下りた後、ドアが閉まる瞬間、タナカがアヤちゃんの腰のあたりに手をやったのを見た時も聞きたかった。「タナカとつきあってんの?」って。
立ち上がったアヤちゃんの髪からは、 焼きたてのパンみたいな匂いがした。 私たちは互いの腰に手をまわした。そのほうが、 肩を組むより視界が広くなって、気持ち良く走れるからだ。 私と同じく柔らかな肉のついたアヤちゃんの腰。 その腰に近づいたタナカの手を思い出して、 今度は喉まで出かかった。「アヤちゃん、彼氏できた?」
ピストルが鳴る。 アヤちゃんが焦って踏み出した左足にやや遅れて、 私も右足を出す。いっちにい、いっちにい。 五歩も歩いたところで、視界の端から他の選手たちの頭が消える。 私たちは目立って遅い。 アヤちゃんが喉の奥で低い笑い声を立てる。 私はアヤちゃんのこの笑い方が好きだ。 映画で若手俳優のすすり泣きがうますぎて逆にそこしか印象に残らなかった時とか、便覧の芥川龍之介の写真の解像度が高くてアー写ばりの完成度だった時とか、そういう時の笑い方。終わってほしくないと私は思った。 アヤちゃんと一緒の高校生活は楽しかった。他のどの子といる時よりも、ずっと楽しかった。
九月の陽射しを受けて、グラウンドはどこまでも眩しい。 ゴールした後、私は、アヤちゃんに「彼氏できた?」 と聞くのだろうか。もし「できたよ」と言われたら、私は一体、 この光の海みたいな午後に、私は。
『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グウィン(大久保ゆう訳)フィルムアート社 の「第1章自分の文のひびき」の〈練習問題①〉問1「文はうきうきと」をやってみました。楽しかった〜!
「くるみパン395円vol.01」よかった
華栄さんとはとサブレさんによるユニット華サブレさんのネットプリント。折句で短歌、短歌穴埋めクイズ、おふたりのいちごつみが掲載されています。楽しそうなことを色々やってみたい!という感じにあふれてきらきらしたネットプリントでした。
拙い評で恐縮ですが一首評をさせていただきます。ご高覧いただけると嬉しいです。
真っ直ぐに進めないのは二人乗りボートをひとりで漕いだせいだね はとサブレ
二人乗りボートは右と左とで同じ強さで漕ぐことによってまっすぐ進むが、それをひとりで漕いでしまうと、左右どちらかに力が偏って真っ直ぐ進めない。詠まれている景はそれだけだが、相聞の多いいちごつみのなかにあるからか、相手とならやや窮屈でも楽しく暮らせるのに、ひとりだとどうしていいかわからず頼りない思いでいる…といったような、ふたり暮らしからひとり暮らしに変わった心情のようなものを連想させて、奥行きがあると思った。
また、先に「真っ直ぐに進めない」と提示した上でその理由を明かす構造は、想像力を掻き立てて巧みだと思った。
失恋で髪は切らない嫌いだと君が言ってたシャンプーを買う 華栄
失恋したとき、髪を切って気分を変えるというのはよくある話だが、主体はシャンプーを買うと言う。君が嫌いだと言っていたから敬遠していたシャンプーが、失恋を機に自由に使えるようになるからだ。このあてつけのような、空元気のような前向きさが、とても印象的だった。主体が過剰なまでに前向きなのは、それほど失恋が痛手で、それほど君のことが好きだったからだ。
「言ってた」の口調の幼さに、巧まざる本音であることが感じられると思った。
すてきなネプリをありがとうございました!
「異国」第一回テーマ『フェスティバル』よかった
短歌同人「異国」第一回テーマ『フェスティバル』を拝読しました。同人の方ひとりひとりが順番で「親」になってテーマを設定するスタイルだそうです。難しおもしろそう…!
拙い評で恐縮ですが一首評をさせていただきます。ご高覧いただけると嬉しいです。
張りぼてが炎の裾を翻す群衆は笑みカメラを向ける 深山静
上句の本当にその場に立って見ているような臨場感に思わず声が出そうでした。お祭りの大きなはりぼてを燃やす火に裾の部分みたいなのがあって、それがゆらめいて翻っているように見える…読む人に景を的確に伝えるいい描写だなと思いました。下句はぐっと火からカメラが引いて、それを囲む人たちに視線が移るのですが、火に笑ってカメラを向ける文明というか人間の他愛なさと、上句の畏れを呼ぶような火の美しさとのギャップに、火への畏敬と人間への愛みたいなものが感じられて印象的でした。
ゴンドラ船の無人に月が乗り込んでそのように忘れていくひともあり 貝澤駿一
ベネチア旅行を描いた連作の一首。ゴンドラ船の無人とは人が乗っていない状態のことでしょうか。そこに月の光がさしこむ様子が、月が乗り込むと表されているのですが、この静かな光景が下句の感慨に繋がるところが、幻想的で好きでした。主体に忘れられた人は夜、主体の知らないところでゴンドラ船に乗り込んで、どこへ向かうのかと想像が膨らみました。主体も読者も、知らないうちに何度もこのゴンドラ船に乗っているのでしょう。ゴンドラ船の、という焦らすような韻律や、下句の句またがりに、熟考しながら話している感じ、考えに夢中で言葉が追いついていない感じが表れているのも魅力的でした。
あかねさすトマトまみれの群衆が垂れ流してる平和な血液 大城紫乃
あかねさすの枕詞が、トマトにトマト以上の意味を加えて深みを生んでいるのがおもしろいなと思いました。これは琉球を描いた歌を含む連作の一首なのですが、結句が血液で締められているのを見て、第二次世界大戦の沖縄を思い出しました。そういったつらい過去を消し去り難く抱えながら、今は今で生きている。そのつらさ暗さと、それに対比した生の眩しさみたいなものが印象的でした。垂れ流してる、の意識に依らず流れる感じや、まみれという言葉を使う点等、口調に幼さ素朴さがあるのですが、それが逆に、拭い去れず通底しているものが図らずも暴露された感じを出して生々しいと思いました。
ヤクーツクの夏至の祭りの草競馬ルールわからず草を食む馬 白川ユウコ
上句は淡々と事実を羅列してあるため、かえってヤクーツクとはどんな土地か、夏至祭とはどんな祭か、草競馬とは激しいのかそれとも穏やかなのかと、想像と期待が膨らみました。地名からイベント名から草競馬と、広い→狭いというふうに視点を絞ってあるのが整然とした印象です。そうやって読者の気持ちを草競馬に絞ったところに下句の優しい光景が描かれることで、祭りの優しい雰囲気や、みんなに見守られて伸び伸び生きる馬が鮮明に印象づけられる構成になっていると思いました。
大木に貫かれたる大魚かな銀の鱗の爆ぜて飛び散る 笛地静恵
上句、釣り上げた大きな魚を、火で炙って食べるために大きな木片に突き刺した景でしょうか。エッセイに大魚を釣って焚火で焼く描写があるのでそうとったのですが、オーロラや天の川のようなものの比喩にも思えて幻想的でした。大きな木が大きな魚を貫くというインパクトのある景に、さらにその魚の鱗が爆ぜて飛び散るというダイナミックな動きが加えられて、映像作品の一コマのような臨場感や迫力が魅力的でした。
スマホからアザーンが鳴りじりじりと近付いてくる祝祭の音 鈴木智子
ムスリムのラマダン(断食)を描いた連作の一首。アザーンはググるとムスリムでの礼拝への呼びかけの声だと出てきたのですが、そんな伝統的な行いも、ハイテク化されてスマホで便利に営まれているという事実が印象的でした。日常の道具であるスマホと、非日常である祝祭の取り合わせも鮮やかでした。
題のフェスティバルについて、微細な日常描写や心情描写の得意なメディアである短歌では難しいのでは…?と思っていたのですが、予報は裏切られ、むちゃくちゃおもしろかったです。祭は長い間続くことで、歴史や伝統、風土を表すものになっていくんですね。観光客の立場や現地の人の立場等多角的に、それもさまざまな祭が描かれたこのネプリで、そういう祭の本質みたいなものが浮き彫りになるようで、それもおもしろかったです。
すてきなネプリをありがとうございました。
「トライアングル(第4シリーズ第二回)よかった
わ〜いトライアングルだ!
ゆるいけれど一筋縄ではいかない水沼朔太郎さんの歌は、どんな歌人をゲストに迎えても、化学変化を起こされますね。今回ゲストの御殿山みなみさんは、かわいい主体像にぴりっと悪意や郷愁がにじむ作風ですが、お2人で並ばれると、お1人ずつ読むのとはまた違った発見がありました。
拙い評で恐縮ですが、気になる歌を選んで一首評させていただきます。ご高覧いただけると嬉しいです。
からっぽで恩寵をそのまま浴びている机上の花瓶と麦茶のコップ 水沼朔太郎
花瓶と麦茶にさす陽を恩寵だと感じる前向きな姿勢が印象的だった。花瓶がからっぽなのは花が活けられていないということだろうが、麦茶のコップには麦茶が入っているので、物理的にはからっぽとは言えない。麦茶に満たされているはずのコップをからっぽと呼ぶ点が、主体の心の空虚さのようなものを思わせて、個性的だと思った。そこに「そのまま」恩寵を浴びせる点に、希望を感じた。
ぼろぼろの靴下なこと言わないし悪いとも思わんが覚えてる 御殿山みなみ
「靴下ぼろぼろだね」と言うと、相手を不快にさせ、自分の評価を下げるリスクがあるから言わないし、自分は衣服で他人を評価するような人間ではない。そんな建前を並べながら、結句の「覚えてる」には、ぼろぼろの靴下への意地の悪い執着や、相手を蔑む心情が見てとれる。この人は、衣服で他人を評価する人間なのだ。幾重にも嘘や建前で覆ってうまく隠したつもりの悪意がギョロッと顔を出す構成が、後味の悪さを残して印象的だった。
ぼろぼろの靴下という名詞を形容動詞連体形のように用いる初句二句の丁寧ではない感じや、「思わんが」「覚えてる」という粗野な口語表現にも、相手に対して敬意がないことが感じられて周到だと思った。
すてきな歌をありがとうございました!