はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

「ぺんぎんぱんつの紙 風雲録」よかった

 今年の冬はネプリにまみれていました。

 

  どうしても誰と生きても雪はふる推しにお金を払って帰る

        田丸まひる「ねえ見逃してきたんじゃないかな」

 私のTL上この冬いちばんの話題歌です。下句の言葉が強烈で、共感を呼んでいますが、上句との対比が好きです。上句までのどこかあきらめの漂う内容を受けながら、それでも「推しにお金を払って帰る」、しぶとく明日を生きるための現金な手段を選びとっているように見えます。寂しくて悲しくてたくましくて最高と思いました。

 

  っこ って何 生きあいっこするわたしたち朝から氷くちうつしてく

                  上篠かける「アンチヒーロー

 ブランコ押しあいっこする、みたいな、「っこ」への違和感を感じながら、すぐさまその言葉の幼児性短絡性を内面化させて自分たちを「生きあいっこする」と表現する。「(本当は何か生産的活動するべき)朝から氷をくちうつし(あまり生産的でないが二人の関係を確かめるには十分な行為)する」という表現からは、現実から離れて2人の脆弱な世界ができあがっている感じ、それを肯定しようとするもしきれない感じが繊細に感じられて、ひとすじなわではいかないかんじがしました

 

  寒天で野菜寄せたる断面と思うまで窓の外は冴え澄む

                 加瀬はる「風邪雲録」

 上句までで煮凝りの話かと思いきや、下句でやわらかく話題が逸らされている。煮凝りに見えていたのは街の建物で、静かに冴えた街の様子が、寒天のたたずまいと重なる。斬新な比喩でうっとりしました。

 

  イヤフォンに閉ざされているぬばたまの耳の奥までさざめく声は

                    森本直樹「旅の起点」

 耳の奥に枕詞「ぬばたまの」がかかるのが、いいなと思いました。耳の奥は暗くて闇に満ちている、それがまず観察力がとても高いし、その観察結果を「闇」とか「暗い」とか言わずにぬばたま一言で表してしまう感じが底知れないと思いました。

 

  形容ができない雲であるけれど漂う、われの遥か頭上を

                   廣野翔一「風の日」

 「けれど」が好きでした。「形容ができない雲」は漂わないと決めつけてしまっているようにも見えるし、「形容ができない」自分を恥じているようにも見える。「形容ができない」のは、人の手に捉えられないことであり、これは手を伸ばしても届かない「遥か頭上」をただよっていることと直結している。ちょっとした思いつきのようで理路整然と理屈が通っているのがおもしろかったです。

 

 素敵なネプリをありがとうございました。

「宝石の国短歌」よかった

 かかり真魚さまの「宝石の国短歌 フォスフォフィライト/アンタークチサイト連作」ネプリを出させていただきました。「宝石の国」だいすきなので、短歌で二次創作をされるというそれだけでもうとってもうれしかったです

 

  ひざまずくやうな角度で手折りした枯れ花濡らす月のほほゑみ

  奪はれに慣れないでゐてくれるので好きだつたんだほそい足首

  夏花(なつか)の名くちに含めばしなやかな名残りだけ来る薄雪草(エーデルワイス

  「エーデルワイスの背中」

 

 一首目、連作としてではなくこれだけすっとさしだされても光景が目に浮かんでくるような歌で、好きでした。「ひざまずくやうな角度」っていうのが、個人差があるかもしれないけれど、角度だけでなく枯れ花のたたずまいみたいなものも想起させて広がりがあって最高と思いました。原作で氷の上でひざまずくように見えるコマがあり、それを意識されているんだと思うんですが、そういうところが二次創作の醍醐味というか、原作の魅力を踏み台にしたジャンプアップが成功していると思いました。

 二首目、これも原作を知っているとどういうことかよくわかるんだけど、知らなくても一瞬虚をつかれた後にじわじわわかってくるような感じがあって巧みだと思いました。相手の奪われることに慣れない(毅然と抗議する)ところが好きだった、という四句までですが、結句つけたしたような「ほそい足首」が意外性があって好きでした。強いようでいて意外にか弱いところが、最後に明らかにされる感じ……かかり真魚さまのアンターク観、フォスとの絆の在処がほんのり垣間見える感じがしました。

 三首目、エーデルワイスと花の名前を呟けば、しなやかだった彼が思い出され、しかし彼はもういないので名残のような記憶を懐かしむほかなく、呆然とエーデルワイスを見つめている…… 私には難しくてこれだけでは読めないけれど、原作のあの喪失感と、欄外のエーデルワイス注(彼とエーデルワイスは似ている)を足掛かりに読解してみて、初めてわかる歌として作られているように思います。こういうつくりの歌はけしからんと叱られてしまうかもしれないけれど、原作知っててわかる読者はにやにやする、こんな歌もあるんだなあと思いました。

 

 原作をよく知っている二次創作短歌を、私ははじめて読んだのですが、原作を知らなくてもじゅうぶん通じる歌があって巧みだと思いました。二次創作って原作の後追いや補完になってしまいがちだけれど、原作で描かれた人間関係や感情や場面を下敷きに、原作では描かれなかった登場人物の心情に、短歌(もしくは他媒体)形式と作者の解釈と技量を駆使して、もう一歩踏み込んでゆく姿勢が必要なんだなと気づかされました。そういう面では演劇に似ているかもしれない。

 演劇は脚本があってお芝居をするけれど、脚本を解釈するのは、脚本家とは別の演出家や俳優であることも多いし、解釈するということは書かれたことを踏み台に書かれていないことにも踏み込んでゆくことだし、お芝居は解釈した内容を自分なりに表現してアウトプットすることなので、脚本をただ口に出しているだけではお芝居にはならない。二次創作も、演劇と同じで、踏み込んだ解釈と自分なりの表現が必要とされる側面があるのかなと「エーデルワイスの背中」を読ませていただいてなんとなく考えました。

 併載?された掌編小説「refrain」も大好きでした。ふたりが仲良くじゃんけんをしている場面から、うってかわって「石は外から包まれていてはだめだった」。フォスの後悔が彼らしく表現されていて、原作の台詞だよと言われても頷いてしまいそうな、説得力のあるお言葉だと思いました。

 素敵なペーパーをありがとうございました。

「クローゼットに鮭」よかった。

 龍翔さんの「クローゼットに鮭」、放流いただきました。

 毎晩何度も読み返させてもらった、好きな連作でした。

 

 男性ふたりで引っ越しをして同じ部屋で住むようになるという内容の連作で、ミニマムな観察眼がちりばめられているところがとても好きでした。短歌研究新人賞の小佐野さんの作品も男性ふたりを題材にしていたけれど、小佐野さんは、世の中や、それに対しての感じ方、どう立ち向かっていくかといったところを主眼に置いていたように思います。一方「クローゼットに鮭」はもっとミニマムで、ふたりの生活を丁寧にひとつひとつ拾っていこうとされているように感じました。二人でアロワナみたいに寝転がる嬉しさ、ごめんねとどちらからともなく言って終わる喧嘩、きみのゆふべのからだの重みを思い出す気まずさ気恥ずかしさ、そういった生活そのものが丁寧に描かれることで、ふたりの日々が奥行をもって立ち上がってくるところが大好きでした。

 

真つ白なフローリングに寝転びてふたり二匹のアロワナになる

とりどりのネクタイ締めた男たちみなゆるやかに縊死してゆけり

まず種を蒔きたがるきみ 指先を生温かき土に埋めをり

ムニエルをナイフで雑に切り分けたきみのゆふべのからだの重み

始まればいつかは終はるものとしてクローゼットに孤独をしまふ

 

 一首目、眩しい真つ白なフローリングに二人で寝転がる様子を、アロワナにたとえる。大きくてどっしりとした魚がぬめっている様子は、同じ泥のなかで眠る幸福感のようなものも感じさせて、新鮮だった。フローリングが白いから暗くなりすぎなくて幸せ感が増しているのかもしれない。光景大切

 二首目、ネクタイに男たちが殺されていく。ストレス社会を暗示した空想の世界のようだが、社会の上で男性として生きる息苦しさのようなものも連想させられ、どきっとする。空想はそもそも比喩なので、空想に比喩的な連想を掻き立てられることを私は勝手に「もらい比喩」って呼んでいますが、もらい比喩と本筋の空想の距離が近すぎず飛びすぎず絶妙……最高……

 三首目、「まず種を蒔きたがる」きみの様子が立ち上がってくるんだけれど、きみで切れているので、それを観察する主体の背中も同時に見えてくる。指先を生暖かい土に埋めるのは種を蒔く自然な動作だけれど、土の生暖かさに、ひと同士のかかわりの親密さのようなものや、その動作のやさしさから柔和なきみの人柄も伝わってきて、丁寧な感じがする。

 四首目、今目の前でムニエルを切り分けているきみを見て、きみのゆふべのからだの重みを思い出す。上句、雑に切り分けるという表現からは幼く粗野なきみの姿が立ってくるけれど、下句で肉体的な成熟等感じさせ、ぐっと踏み込んで解像度が上がる感じがする。

 五首目、この連作ではクローゼットは部屋で肩を寄せ合う、被って一日を過ごすなど、二人を投影したもののように描かれる。いつかの別れを予期してそのなかに孤独をしまっておく、親しいひとにも見せない孤独をしまって涼しい顔をしているクローゼット、仲いいだけでも冷淡なだけでもうまく回らない人間関係を暗示しているみたいで、ため息が出ました。

 

 漫画家ヤマシタトモコ先生の作品に「スニップ、スネイル、ドッグテイル」という最高の短編集があります。男性二人がだんだん距離を詰めて仲良くなり、同棲にいたるなかで、ドトールに行ったり、ハーブの水やりを押し付けあったり、風呂の掃除をしたり、そういう日常の些末なことをこれでもかこれでもかと時系列ばらばらで積み重ねて、いつのまにか、最初のシーンで提示された「ふたり肩を寄せ合って暮らす日常」にたどり着くんです。たぶん、日常ってそういう形でしか積みあがらないし、見えてこないと思うんです。大切なことは細部に宿るというか……

 「クローゼットに鮭」はそういう地道な積み重ねに真正面から取り組んだ連作だったので好きだったし、びっくりしました。こういう連作の作り方があるんだって。

 素敵なペーパーを放流いただき、ありがとうございました。

 

『猫は踏まずに』よかった。2

【くくる、くくらない】

  ワトソン君こつそりチョコをお食べだねキスしなくてもわかるよぼくは

  ほつほつとはつなつに雨おちてきてないものをねだつてもいいんだよ

  騙しゑを模写するようなぼくたちの窓を過つてゆく鳥の影

  雷鳴は真夏の鼓動ぼくたちはたひらな胸のまま生きてゆく

  きみと見る月ははつかに獣めくふたり正しく踏みはづすため

  生殖はなさずあなたとほろびゆく種族同士のことばをかはす

 

 解説には、Ⅲ部は一首一首独立し、作中主体と作者が違う作品が集まっているとあった。(わたしは作中主体と作者はちがうと思って読むので、改めて言われてはっとした)

   1首目は特に「#バレンタインBL短歌 三首」と詞書があるが、それ以降、詞書はない。BLと書いてはあるが、恋人同士の甘い囁きにも、迂闊な親しい同僚へのからかいにも読める。いずれもゼロ距離の濃厚な人間関係がなんだかこそばゆい。

   2首目の「ないものをねだつてもいいんだよ」、3首目の「騙しゑを模写するようなぼくたち」、4首目「ぼくたちはたひらかな胸のまま生きてゆく」、5首目「ふたり正しく踏みはづすため」、6首目「生殖はなさずあなたとほろびゆく」、いずれも2人の人間の濃厚な関係と心情が描かれ、名づけも定義づけもされないまま、読者に手渡されている。

 これを見て、どこで読んだかや細部はうろ覚えだが、小説家のあさのあつこが「同性同士の関係は各々オリジナルで、名前がつかない」と言っていたのを思い出した。その時は、異性同士の関係にもオリジナルで名前がつかないものはたくさんあるだろうが、何にせよ濃厚な人間関係をすべて恋愛とくくってしまうのは乱暴で、人間関係というのはそもそも、名づけや定義づけを必要としないのではないかと胸をつかれた気がした。

 本多さんのⅢ部でのこういった歌は、人間関係を乱暴にくくって名づけ、定義づけすることを慎重に避けている。これは、名前のつかないオリジナルの人間関係をあるがまま描き出そうとする、ある種の試みなのかなという感じがした。前エントリで触れたように、ふとした瞬間や感情を巧みにくくって定義づけする手腕の裏返しとしてというか、そういった「くくる、くくらない」という点に本多さんは人並外れて鋭敏な感覚をもち、またそういった部分に自覚的でいらっしゃるのではないか。

 

  ふたがれて何も話せぬくちびるのとほり雨ならもうやむところ

  抱きしめて背中をなでてゐるうちに裸眼は海をこぼしはじめる

  みづうみのもえ出す夜を待つてゐる同僚として働きながら

 

【まとめ】

 本多さんの魅力として、(1)「あえて」で現実を一枚剥がして深淵をあばくところ(2)巧みな定義づけ(3)くくられがちな事象をあえてくくらない試み、そういった感覚の鋭敏さ、の3点を挙げさせていただいた。

 加えて、甘い歌や深刻な歌を詠まれてもどこかあっさりと読ませる軽さ、その軽さでもって労働からくる疲労や手にしなかったものへの諦め、世の中への疑いなどを粘り強く詠まれるしぶとさなど、どこをとっても作者の魅力的な人柄が表れた歌集だと感じた。作者のキャラクターだけで読まれると危ないと昨年夏の「羽虫群」批評会でお聞きしたが、作者と主体を完全に切り離したⅢ部や、軽く寂しく強かなだけでなく甘くドラマチックな相聞が織り交ぜられていることで、最高のバランスが誕生していると思った。

 また、旧かな?づかいが絶妙だと感じた。職場や人間関係をゼロ距離で見つめる作風なので、口語だと密着しすぎて、高精細映像すぎて目が疲れる時みたいになる気がした。旧かなで日常から薄膜1枚隔てることで、作者の意図や心情がくっきり見えるようになっていると感じた。

 なんかもう言いたいことがありすぎて支離滅裂になってしまった感じがするのですが、素敵な歌集を読ませていただいてありがとうございました。私はふだん軽やかな歌集をあまり読まないので、『猫を踏まずに』を最初に目にしたとき「これいつもとちがうやつや」と思いました。しかし、タッチは軽いけれど、『猫を踏まずに』は人間の心情を丁寧に見つめ、緻密に描き出そうとする歌集で、読めば読むほど全部付箋を貼りたくなって、七転八倒してこんなに長い感想文を書いてしまいました。どこか冷静な自分を備えて、観察、描写、それを伝えるための効果的な構成なんかを考えてらっしゃる様子が伺えて、ちょっとふるえました。ありがとうございました。

『猫を踏まずに』よかった。1

 本多真弓さんの第1歌集『猫を踏まずに』、付箋数がえらいことになったけれどすみずみまでじっくり読みました。がんばって間引いたけれど選べなかったので長くなってしまいました。

 

【「あえて」の凄み】

  残業の夜はいろいろ買つてきて食べてゐるプラスチック以外を

  生きてゐて明日も働く前提で引継ぎはせずみな帰りゆく

  わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

 

 1首目、残業で心を荒ませながら、心と空腹を落ち着かせるために、とりあえず口に色々入れる。いろいろとはおにぎりだったりプリンだったりレッドブルだったりするが、プラスチックだけは食べない。そんなこと言われなくてもわかるけれど、それでもあえて言うことで、プラスチックまで食べてしまいそうな心身のぎりぎり感が伝わってくる。

 この歌集は、「わかりきったことをあえて」という内容が印象的だった。「あえて」言われる内容は、読者の虚をつき、現実から建前を薄皮いちまい剥がして現実の深淵みたいなものを提示し、凄みがある。

 2首目、「引継ぎはせずみな帰りゆく」のも「生きてゐて明日も働く」のもあたりまえだけれど、そう言われると、明日の出勤まで生きているかわからない我々の未来の不確実性のようなものを突き付けられ、うっと言葉に詰まってしまう。明日までに死ぬかもしれないのに引継ぎをしておかない我々の迂闊さ、能天気さ、本当にこれでいいのだろうか。

 3首目、表題になった作品。「わたくしはけふも会社へまゐります」、丁寧すぎて慇懃無礼というか、コミカルで軽やかで冗談ぽい感じがする。この軽さが歌集全体を覆っていて、恐ろしいことを言っていても、重たくならずにさらっと読める。猫はこれ以降ほとんど出てこないことから見ても、作者のタイトル選定の主眼は猫というキャッチ―な題材ではなく、こういう自分の特色、あるいは大切にしている点としての「あえて」感、そして人をくったような軽やかさを打ち出してゆくことなのかなと思った。全然違ったらごめんなさい。

 

【名づけの天才】

  ゆふやけと待ち合はせして窓際にシュレッドをする事務職われは

  降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる

  こころからあふれちぎれてゆくものをさくらさくらと呼べばゆふぐれ

  ゆふぐれてすべては舟になるまでの時間なのだといふ声がする

 

 1首目、ゆふやけと待ち合わせして窓際でシュレッドをする、美しい光景だけれど、結句では自分を事務職と規定して締めている。うつくしい光景と対比するように自分を省みたとき、自分は事務職なのだと気づく、こういうあたりまえなんだけれど改めて気づいてしまうと新鮮な気づき、定義づけ、名づけの歌に、魅力的なものがたくさんあった。

 2首目は自分を会社員と定義づけし、それを「降水と言ひかへられる雨」にたとえる。どこか感情がなくよそよそしいが、曖昧を排した正確さを求めた結果のようにも見える「降水」に、会社員の自分を重ねる比喩が鋭い。

 3首目は「こころからあふれちぎれてゆくもの」を「さくらさくら」と呼ぶ。失恋なのか仕事疲れか、もっと根源的な得体のしれない悲しみなのか、名前のつかない感情が、常に散ることとセットで考えられる「滅び」のイメージの強い桜と重ねられていて、新鮮だった。

 4首目、「すべては舟になるまでの時間」は死出の旅やノアの箱舟も想起させられる。しかしそういう読みよりもむしろ、人生はなにか大きな世界にこぎだすことの連続で、すべては船出から船出への間に過ぎないといったような、人生になんらかの定義づけをし規定しようとしているようにも見える。

 自分の心情をわかりやすく伝えるために他のものを使って表す比喩とは違い、本多さんの名づけ、定義づけは、もっと感情を排して決めつけてしまおうとする何者かの気配が感じられる。2首目の「言ひかへる」人の存在、3首目「呼ぶ」主体、4首目の「声」の主など、何か意志をもったものを介在させるからかもしれない。きっぱりと甘い情感を排し、断定してしまうことで、説得力と共感を生んでいるのかなという感じがする。

 

 「『猫は踏まずに』よかった。2」に続きます。長いと読むのしんどいよね

「真砂集」良かった    

 とりあえず まず 好きな歌を あげます。絞り込むのが大変でした。私の語彙力がゆるせばもっともっとあげたかった。

 

手をつなぎ歌ひつつゆく四歳の子の切りたての爪の鋭さ 飯ヶ谷文子「帰る場所」

 「四歳」と言われて初めて、四歳の子がどれくらいの大きさ、質感なのか、把握していない自分に気が付く。「切りたての爪の鋭さ」から、未熟な、ほどける前の果実のような、子どもという存在の硬さが想起されて好きだった。「手をつなぎ歌ひつつゆく」という出だしは「四歳の子」を導く序詞のようになめらかであたたかく、硬く冷たい結句との対比が印象的だった。

 

新幹線車内ニュースの配信元の移ろうごとく東国へ帰る 太田青磁「京に上る」

  新幹線車内ニュース、漢字とカタカナだけなので人工的な感じがして、疲れて乗り込む新幹線の乾いて無機質な感じをよく伝えている。目で追えるか追えないかの速度で移ろう「配信元」と同じ速度で、出先の京都からホームの東国へ帰る途中、空気や気分が切り替わっていく様子がおもしろかった。

 

見ず知らずの人が教えてくれました猫にも乳癌のあることを 嶋田さくらこ「猫と向日葵」

  やわらかな口語の敬体の出だしで三句までなめらかに進み、下句でぐっと踏み込んでくる。そのチャンネルの切り替えが刺さった。「猫」というやさしい言葉と「乳癌」という恐ろしい言葉の目新しい取り合わせが、逆に深刻さというか現実の色濃さを伝えてきて、一瞬遅れて伝わってくる主体の狼狽えが深くて印象的だった。

 

ダンプからこぼれた土を掃くための道具がなくて汚れた道路 「日々の作業は」瀧音幸司

  区切れがなく、すべての言葉が修飾として結句に集約されている。こういう歌はくどくなったり読んでいて息切れをしたりするとされているけれど、この歌は上から下まですうっと読み下せるのが気持ちよかった。必要な道具がない不便な感じ、そのせいで道路が汚れている居心地の悪い感じから、全体的な生きづらさというか、暗雲のようなものを想起させ、景色のことしか言っていないのにほの暗い気分が伝わって印象的だった。

 

霧雨が蓮の葉に降り目で見えるいちばんちいさな水球になる 「わたしの故郷、きみのふるさと」中家菜津子

  二句までで景色がぱっと浮かび、その後にさらに焦点が水滴にあわさっていく。景が立つ、という言葉をよく使うけれど、立った景をさらに深める方法があるのかと驚いた。霧雨が、という主語を「降り」と「水球になる」にかけてなめらかにつないでいるのもすごいし、霧雨を目で見えるいちばんちいさな水球と言い表す観察眼もすごい。

 

9巻は貸し出し中なり子とわれもフランクフルトに足止めを食う 「釣り針」永田紅

  「9巻は貸し出し中なり」、唐突な出だしだが、一瞬遅れて誰もが経験したことのある事象だと思い至る。「足止めを食う」で、「アルプスの少女ハイジ」の続きが見たくて勇んで来たのに貸し出し中で、はしごを外されたような気分が鮮やかに伝わってくる。「フランクフルトに」という言葉からは、「ハイジ」に没入している感じも。主語が「われと子が」などと子主体ではなく、「われも」と並列なのが工夫されていると思う。

 

「不合格」と淡々という妹の母の目では堰切る涙 「おれのいもうと」宮嶋いつく

  一連を通し、妹との微妙な距離感が描かれていて、心うたれた。上句ではふてぶてしくさえ見える気丈な妹を描くが、下句で妹の内面と、それを見守る主体の内面に踏み込むことで、景をがらっと転換させている。その転換が鮮やかで、妹の悲しみの深さと、主体の複雑な気持ちが、より強く迫ってくる。

 

赤ちゃんに吸われたことのない乳に謝る夜もあるやわらかな 「蛸の瞳は」森笛紗あや

  赤ちゃんに、と始まると平和で楽しげな感じがするが、読み下すにつれ「乳」を赤ちゃんに吸われない自分への内省のようなものが描かれ、しんと静かな気持ちになる。結句「やわらかな」は赤ちゃんにも乳にも夜にもかかり、内省をふんわり受け止めてやさしい。この結句に救われるというか、希望という感じがする。

 

 

 引いた歌が赤ちゃんや子どもの歌が多いのは、私がまだなったことのない存在「母親」に(的外れかもしれないけれど)憧れというか、なんだか熱い視線を送っているからかもしれません。高校生の時は働く女性が出てくる小説ばかり読んでいました。「自分ではないもの」の生々しい心情に触れるときの、おそれやあこがれが、私が創作物を受容するときのひとつのモチベーションになっているのかもしれません。

 「真砂集」は、そういったおそれやあこがれがたくさん詰まって刺激的でした。1975年生まれの方が集まった短歌アンソロジーということでしたが、なんというか、私が背伸びしてぎりぎり見えない世界を悠々と見渡している方々の視線をいっぱい共有してもらえたような気がします。子どもがいる、子どもがいないことを乳に謝る、買い猫の乳癌と手術に直面する、ダンプを運転する、いもうとがいる、……いろんな分野で私のやったことがないこと、できないことをやっている人がいて、その人たちに見えている世界を短歌を通じて共有してもらえて、なんだか贅沢な読書経験でした。

 素敵な歌集をありがとうございました。

現代歌人集会秋季大会 うろおぼえレポ2

4、鼎談

 尾崎左永子さん、松村正直さん、大森静佳さんで「佐藤佐太郎についてなど」という題でお話しされました。

 ・昭和十九年、女学生だった頃、戦前で本が手に入らず本屋で立ち読みした「しろたへ」に感銘を受け、ここに師事すると決める。戦後手紙を送り、歌を添削してもらった。

 ・俳句は季語を中心に読み解くが、短歌は上から下まですうと読み下す。佐太郎の歌には区切れもあまりない。二事象詠むと余計だと言われる。

 ・「立房」は、戦後まもなく、佐太郎自身が出版社をたちあげて出した歌集。短歌滅亡論には反論せず、いい歌を淡々と詠まれていた。

 ・直喩が多い。

  →曇日のすずしき風に水蓮の黄花ともしびの如く吹かるる

  →桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

  (大森さん「直喩のように感じない、言葉と心がぴったり合致している」)

 ・写生の一番もとのところだけなのに景が立つ。情景がないのにさびしいってすごい。

  →ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え舗道がその右に見ゆ

  (松村さん「ここの」の入り、「その右に」が特に効いている)

 ・砕くのがうまい。見慣れない砕き方でも、なるほどと思わせる力がある。

       →とどまらぬ時としおもひ過去(すぎゆき)は音なき谷に似つつ悲しむ

 ・単にして純(only 加えて pureの意か)、技術というか、あたまで考えるとカドが出る。感じたことをそのまま言うのがよい。こねくりまわさない

(尾崎さん「佐太郎に『かざりすぎピュッ(線で消される音?)』『書きすぎピュッ』と、どんどん消されました」)

 ・草の高さや時間の感覚を、そのことを直接言わずに表現する言葉選び

  →秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直なる雨は芝生に沈む

  →白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし

 ・晩年の切実さ、自由さ

  →珈琲を活力としてのむときに寂しく匙の鳴る音を聞く

  (尾崎さん「若い人が『寂しい』と言ってもきまらない、老いた佐太郎の切実な寂しさがここに表れている。これがあるから私は自分の歌で『寂しい』を使わない」)

  →箱根なる強羅公園にみとめたる菊科の花いはば無害先端技術

  (尾崎さん「若いと嫌味だが、死を意識してなおこんなに新しい言葉をつかえるという自由さ」)

 

 佐藤佐太郎について、血の通う人間としてのエピソードが加えられ、貴重なお話を聞かせていただいたなあと思いました。また、尾崎さんをはじめとする話者の御三方の手で佐太郎の歌が論じられ、私ひとりで読んでいるだけでは絶対にわからないような観点が次々と示されることで、深い考察の海に、どぼんと一緒に連れて行ってもらうような感じがしました。

 佐太郎は超人的な作歌センスと言語感覚を持った天才だけれど、それは、尾崎さんも仰っていた「直接、端的、単にして純」を自分に課し、それを裏切らないように努めた結果たどりついたところでもあるのかなと思いました。

 とても勉強になったし、たのしかったです。ありがとうございました。