はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

エア読書会・岩尾淳子さん『岸』

前エントリに続いて、先日行われた「未來短歌会彗星集神戸歌会・田丸まひる『ピース降る』・岩尾淳子『岸』合同読書会」に参加できなかった悲しみをばねに、ここでエア読書会を開催しています。

 

岩尾淳子さん『岸』について 

1、ひそやかさ、やわらかさ

 校舎から小さく見える朝の海からっぽの男の子たち、おはよう

 起立! という少女の声に研がれたる君たちそしてふたひらの耳

 水面に舌入れてのむ首筋のやさしいかたちを獸は知らず

 

一首目、朝、登校したてでまだ眠たく、エンジンのかかっていない「からっぽ」の状態の男の子たち。作者は彼らにしゃきっとしなさいと叱咤するのでなく、おはようと優しい声掛けをする。二首目、そんな「からっぽ」の生徒らにエンジンがかかりはじめる様子を、「少女の声に研がれたる」と表している。やわらかく角を失っていた生徒らが鋭さを帯び始める前、「君たち」自身よりも先に、「ふたひらの耳」が覚醒しはじめる。三首目、一心に水を呑む獸の首筋がやさしいかたちをしているのに気づき、しかしそれに対して何か働きかけるわけでもなく、ひそやかにそれを見守るやさしい視線。

この歌集を通して、岩尾さんのお歌は、観察の緻密さと、やわらかい言葉選びが魅力的だな~と思いました。「からっぽ」の様子、「ふたひらの耳」、「首筋のやさしいかたち」など、何気ない日常の風景のなかから「詩」を見つけ、簡明でやわらかい言葉にされるところが印象的でした。

  「歌以前の作者像をかわいがられすぎると危ない」、「作者像に寄った作品作りはよくない」という話を、虫武一俊さんの歌集「羽虫群」の批評会で聞いたのですが、岩尾さんの歌集全体に通底するやわらかでおちついた作者像は、むしろ歌全体にしなやかに力を与えているように思います。掲載された歌は皆、一貫して柔らかく澄んでおり、嘘やごまかしの匂いが全くしなくて、ずっと安心して読んでいられました。

 

2、からだにひびく

 眠れない耳はさみしく牛乳の壜はひびけり火花のごとく

 目覚めれば初めて出会うあけがたの冷たい床に素足をおろす

 

  一首目、皆が寝静まった時間帯に一人起きていて感覚が鋭敏になっている。牛乳の壜が立てる音が、静寂のなかで火花のように、耳に響くように感じられる。二首目、大切な人を失った悲しみで眠り、目覚めた朝、「あけがたの冷たい床」に初めて出会ったような気がする。冷たい床に素足をおろす心許なさとおののき。

  自分の身体のなかで呼び起こされる感覚も、丁寧に見つめて歌にされます。そのため、鋭敏になって牛乳瓶の音が強烈に感じられているのが、まるで自分の耳であるかのように読者に錯覚させると思いました。この読者の「からだにひびく」感じが、私はとても印象的でした。

  

  それぞれの暮れゆく海に触れぬよう離れぬようにあなたと歩く

 

  この歌もそうで、触れぬよう離れぬようにあなたと歩く距離感のぎこちなさが捉えられていて、「それぞれの暮れゆく海」という比喩に深い実感がこもって伝わるような感じがします。

 

3、まとめ 

  全然うまく言えないのですが、私はこの歌集がとても好きです。

  どうやったらこんなに実感のこもった、読者の五感まで掘り起こすような言葉選び、題材選びができるのだろうと、読んでいる間ずっと羨ましく思っていました。こんな歌が詠めたらどんなにいいだろうと思います。ご家族の歌、ご自身の暮らしの歌にもその傾向は顕著で、透明であたたかい世界が広がり、居心地のいい場所のように感じました。私の歌はまだまだですが、岩尾さんの歌みたいに「届く」歌が詠めるようになりたいです。がんばります。

エア読書会・田丸まひるさん『ピース降る』

先日行われた「未來短歌会彗星集神戸歌会・田丸まひる『ピース降る』・岩尾淳子『岸』合同読書会」、むちゃくちゃ行きたかったのですが、諸事情で行けませんでした。悲しいので、ここで1人でエア読書会を開催したいと思います。

 

田丸まひるさん『ピース降る』について

1、目に見えないものをとらえる

こころとは紺色の鳥やわらかく抱いてひらけば羽ばたくのだから

ほどけない微熱どうしてこの熱は言葉に変化しないんだろう

ざらりおん金平糖を踏むような会話のざらりおん、ざらり、おん

 

 「ピース降る」を読ませていただいて印象深く感じたのは、比喩の巧みさと美しさでした。田丸さんの比喩からは、対象をよく理解した上で言葉を選ぼうとされている印象を受けました。

 一首目、「こころ」という目に見えないものを、「やわらかく抱いてひらけば羽ばたく」「紺色の鳥」と言い換えられています。「こころ」の、やさしく体温の通う形で触れ合えば力がみなぎる特色、清廉で奥深い感じ、軽やかに希望にむかってひらくという側面を、嚙み砕いて丁寧に捉えられたからこその比喩だと思います。美しく目新しい言葉の並びだけれど、それだけでなく、真摯な理解に努められているところが好きです。

 二首目は「言葉」への理解が深いように思います。からだのなかで「ほどけない」ままくすぶる「微熱」のような感情が、放出されて「言葉」になるんだけれど、実際の微熱は、そうやって放出されることはない。自分から出てくる言葉の在処と行方をつぶさに観察されているからこそ、出てくる比喩だと感じました。

 三首目は「会話」への着眼が印象的でした。ざらりとした手触りの会話、なめらかに心情が伝達しあえていない感触が、特徴的な擬音語「ざらりおん」と、「金平糖を踏む」という比喩によって表現されています。また、最後の「ざらり、おん」と少し余韻を残すような感じは、わかりあえていない感覚からくる不穏な未来を予測する主体の不安が表れていて、巧みだと思いました。「会話」に際してのわずかな引っかかりをよく吟味し、それがよく伝わる擬音語を創作、活用されているところがすごいと思いました。

 

2、生活のたしかな手触り

言い訳をするときいつもひんやりとシンクにもたれたがるばかもの

生活の中に輪ゴムを拾うとき憎しみのほんとうにかすかな息吹

術前のライブチケットひそませた財布を薄い金庫にしまう

 

 また、「ピース降る」では、生活をする上で目にする小物を巧みに用いて、ままならないことに対する感情を繊細に拾い上げていらっしゃるところも印象的でした。

 一首目、相手の「シンクにもたれたがる」癖を目ざとく見つけて歌にされています。言い訳をされている主体の心中は決して穏やかではないのに、その反面、「ばかもの」は「ひんやり」とした様子に見える。「言い訳をするときいつも」「シンクにもたれたがる」という相手の様子ひとつで、相手と主体の関係や互いの心情が生々しく伝わってきます。

 二首目、「輪ゴム、確かに拾う!」と声を上げそうになりました。家で自分でぶちまけたたくさんの輪ゴムも、職場でみんなに踏まれて埃だらけになった一本の輪ゴムも、拾う時の心中はハッピーでないことが多い。わざわざ拾うためにかがんだ時に、自分のなかに自分でも気づいていなかった憎しみがかすかに息づいているのを発見する…… 輪ゴムを拾うという動作が、その発見の唐突さ、確かさを裏付けています。

 三首目、楽しみにしているライブだけれど、それが終わればいよいよ不安な手術が目前に迫ってくる。そういった複雑な心境が描かれています。手術とライブチケットという取り合わせが、アンバランスなようで生活の一面を確かに捉えており、主体が背景や暮らしをもった人間として生々しく息づいているのを感じさせられました。財布という貴重品を薄くて頼りない金庫にしまう不安がまた、手術前の不安を増幅させていると思いました。

 

3、まとめ

 「ピース降る」、最初に手に取らせていただいた時、ずっと表紙を眺めて「かわいい……えっち……最高……かわいい……」みたいになっていました。しかし、読み始めると、「ピース降る」の歌は、ままならないことに対して心を乱しながらも、問い、諦め、戦い、気づく内容の歌が多く、どんどん引き込まれていきました。また、そういった重たい内容も、対象を先入観で決めつけて詠むのではなく、自分でよく観察、理解しようと奮闘されている姿が伝わってきて、本当に骨太な印象というか、かくありたいと感じました。しかも、おしゃれな小物使いや美しい言葉の並びによって、そういった骨太の歌も、するするっと読まされてしまう。それは美意識の高さからくるものでもあるし、読者のことがよく見えていて、それに応えるだけの高い技量からくるものでもあるように感じました。

私は作歌の際、わりと見たこと思ったことをばーんと投げつけてしまうので、「ピース降る」を読ませていただいて、色々なことを考えさせられました。対象を噛み砕こうと奮闘しているか、読者が見えているか、美意識があるか……。「無理むり絶対できない」と震えあがる自分をなんとかなだめながら、また歌を作っていこうという勇気をもらえました。切なくて可愛くておしゃれで泥臭くてかっこいい歌集でした。ありがとうございました。

売野機子「MAMA」よかった

 売野機子大先生の「ルポルタージュ」がとても話題になっているので、前作「MAMA」を読み返しました。「ルポルタージュ」も完結したら感想を言いたい。

 あまりうまく説明する自信がないので、とりあえず「MAMA」のすごいところを箇条書きにします。

 1、主人公にギャビーを据えたところ

 2、非現実的な設定が事実のようなものを突いているところ

 

1、ギャビーを主人公に据えたエクストリーム配役

 恩田陸の大ヒット作「蜜蜂と遠雷」は、複数の登場人物を主人公格として取り上げながら、堕ちた天才少女、栄伝亜夜を中心に据えていました。冒頭を衝撃的に飾った個性派の風間塵は、後半になるにつれ徐々に出番を減らしていきます。これは作者が、繊細で感じやすい亜夜を主人公にするほうが、読者の共感を得られると踏んだからでしょう。

 一方「MAMA」の主人公ギャビーは、寄宿舎のなかでも抜きんでて個性的な人物で、読者につけいる隙を与えません。友人たちはギャビーのあまりに壮絶な生い立ちと、圧倒的な歌の実力に、驚き、明らかに異質な空気を感じ取ります。

 ギャビーを中心に据えるメリットは、なんといっても読者への掴みでしょう。他の漫画でもそうそう見ない悲惨な過去を持つ少年の行く末が気になり、読者はあっという間に心を掴まれてしまいます。ただ、あまりに個性的すぎると、読者を振り落としてしまう。しかし売野機子は、読者の作品への関心が途切れないよう、周到な細工をしています。

  • 初めて寄宿舎の秘密(歌がうまくなりすぎると命を落とす)に触れるギャビーに、他の寮生にはない新鮮な驚きと疑念を抱かせ、読者と同じ視線に立たせる。
  • ギャビーよりさらに寄宿舎を知らないアルと同室になり、疑念を相対化する。

  これが、萩尾望都トーマの心臓」から繰り返されたギムナジウム群像劇ものを踏襲してなお、「MAMA」がどこか新鮮で現代的に感じられる理由でしょう。読者の共感を安易に受け付けないギャビーの、固く閉ざした感情が緩む瞬間を、読者は最終巻の最後まで、息を殺して待ち望むことになるのです。

 

2、自己開示、成長の比喩としての「天使になる」

 ところで、「MAMA」連載当時最も取り上げられたのは、少年たちが「天使になる」といって変声前に命を落としてしまう設定の巧みさでした。天使になる条件は謎に包まれていますが、登場人物の1人イーノクは、自分の死をもって孤独が天使を引き寄せるという結論を導きます。孤独になると理由もなく少年が死ぬ。こんな非現実的な設定が、どうしてこんなに読者の心をつかんだのでしょう。

 これは、思春期における自己の開示の比喩と考えるとわかりやすい。作中では「孤独」という言葉が使われていますが、天使になった少年らは皆、自分が抱えた秘密を大切な人に伝えることができませんでした。イーノクは家族に自分の実験を告げず、アベルは親友を失った時に抱いた疑念を、自分の変声を心待ちにしている母親に伝えることができなかった。

 大切な人に秘密を打ち明け、自己開示ができること。意識的にせよ無意識にせよ、作者はこれを思春期の試練として登場人物に与えているのです。ギャビーの母親代わりを買って出て打ち解け、ギャビーに生きづらさを打ち明けたアル、反抗していた母親と和解したラザロ、母親への誤解を解いたギャビー……生き残った少年たちは皆、親しい人への自己開示に成功しています。

 誰もが思春期でぶつかった自己開示という課題を根底に抱えているからこそ、非現実な設定もどこか切実で、読者の心に響くものになっているのです。むしろ「大人になれない(=命を落とす)」という設定の非現実性、比喩の色の強さが、かえって読者の強い実感につながっているのかもしれません

 最終巻、天使になった少年を見て、ギャビーは「子どもが天使になったら、大人はパレードをしてもいい」と呟きます。「祝福されている」からと。他人に秘密をうちあけることができず、自己開示に挫折して大人になれない子どももまた、作者は肯定的に捉えているのです。作中では大人になれない子どもは死んでしまうけれど、作品を離れれば、そんな少年たちも苦しみながら毎日を生きている。思春期の課題につまずいた子も、無事やりとげた子も、作者は等しく祝祭ムードで受け止めようとしています。

 

3、「MAMA」の新しさ 

 こうしてみていくと、「MAMA」が数々くりだした離れ業、飛び道具のすさまじさが改めて浮き彫りになりました。非現実的で、残酷で、性的な描写も厭わない、読者を選ぶ作品として作者は捉えているようですが、それだけで敬遠するのはもったいないような、実験的かつ魅力的な作品だと思います。

羽虫群 批評会 ふんわりレポ2

道券なりに

 私は虫武さんとはお会いしたことはなく、ひととなり?にもあまり触れる機会がなかったので、歌集を一生懸命読み込んでの参加でした。 

 「かわいがられすぎるとあやうい」、「作者像に頼るとあやうい」という見解が出たように、『羽虫群』は、1冊を通して窺える魅力的な作者像が印象的でした。自信なさげに肩を縮め、閉塞感と絶望にあえぐ様子、さりげないユーモアや、他人への肯定的な視線を忘れない清楚さ、つつましさ……(周囲から愛される筆者ご本人と、歌集から窺える愛すべき作者像を混同していないか、私はちょっと自信がありません。理由は自分でもよくわからないけれど、そこは混同してはいけない気がします)

 この魅力は、しかし、技術の高さがあって初めて活きているというのが、批評会に参加させてただいてよくわかりました。染野さんの仰るように、『羽虫群』は多様な末尾、絶妙なてにをは、題材選びなどの技術力の高さがあります。1首1首に隙や傷がないからこそ、読者は安心して、作者の可愛さに悶えることができたのだと思いました。

 私は連作や歌集をひとまとまりとして見るのが苦手で、1首1首に対する個別の感想だけを携えて乗り込んでしまいました。しかし、みなさんの見解をお聞きして、1冊のあ歌集の印象が立ち上がってくるのが、とても刺激的でした。

 1冊を通した印象の検討と、1首1首の精細な検証の二つを平行することで、改めて『羽虫群』の魅力(愛すべき作者像と、それを支える高い技術)が立ち上がってくる。その現場に居合わせることができたということが、私にとっては何よりもありがたい批評会でした。

 あんなに大きな会を開催されるのは、大変だったと思います。主催してくださった空き家歌会の皆さま、とても勉強になるお話を聞かせてくださったパネラーのみなさま、ご一緒いただいた参加者のみなさま、素敵な歌集を作ってくださった虫武さんをはじめとする『羽虫群』を作られた方々、ありがとうございました。

 

羽虫群 批評会 ふんわりレポ1

 わーすごい!と思っているあいだにあれよあれよと終わってしまいました。

  正直自分の記憶の精度に自信がありませんが、書かないと無かったことになってしまう気がするので…

 

穂村弘さん

 「これでだめならもう仕方がないというくらいよくできた歌集」という、歌集としての完成度の高さへの指摘を皮切りに、「だめな自分(作中主体)」とその絶望が、時にはユーモアのある文体で描かれているという大観を示される。 

 〇「汚い猫を美しく撮る(だめな自分をいい感じにとらえた短歌を作る)」

 〇歌に登場する「妹」の存在から、「リアリティが根にある作家性で非実在の妹を描くあやうさ」の指摘

 〇↑を受けた「虫武さんには妹がおらず愛人と奥さんがいてほしい」との発言(リアリティを追求した作風でありながら読者が信じ込むほどの精度で空想を歌に盛り込むような、したたかな作歌態度であってほしいということか)。

 〇ユーモアは、作者と対象物との距離感が適切だから起こる(?)←うろ覚えです

 

大森静佳さん

 「虫武さんの個性は、近代短歌の伝統である生きづらさを完全口語でこなしているところ」としたうえで、神楽岡歌会の思い出などを交えつつ虫武さんの特徴を挙げてくださった。

 〇モノのあざやかな存在感

 〇ここは譲れないという自負のある歌の迫力

 〇外の世界を描写した歌の、他人の人生を肯定的に捉えた清らかさ

 〇疑問形の多さ(いつまでおれはおれなんだろう、手足はどこへどうすればいい、など。他者へ自分を開いて見せるような手つき)

 

染野太朗さん

 「解説に書かれた『内向性』を念頭に読んでいいのか」という問題提起が示された。穂村さんが「あたたかい歌会、みんなに愛される歌人」と述べておられたのに対し、そういった作者像を疑いながら読むという視線だった。

 〇内向的という言葉ではくくれない一面(これは諸刃の剣)

  ・ぶっきらぼうな口調、自暴自棄な様子、他人を冷ややかに見る視線

  ・家族ができ、状況が変わってなお「何ももっていない」という態度

   (読者を誘導しているとみるか、得難い個性とみるか・・・)

 〇リフレイン、句またがり、一字空けなどを巧みに用いて印象を操作する技術力の高さ

 

魚村晋太郎さん

 「司会なので・・・」と仰りながらも、レジュメに載せた歌をもとに、虫武さんの歌で印象的な点を挙げてくださった。

 〇SNS的な、そこにいない他者に呼びかける口調

 〇オマージュ的、本歌取りを巧みかつ多く用いている

 〇人間的な成長が徐々にわかる構成や、他者への視線の変化が歌集のなかで順番に表れる構成の巧みさ

 

熱い議論 

その後、魚村さんが論点を適宜整理しつつ、パネラーの皆さんに意見を求めてくださった。

 〇ネットとか、投稿とか、結社とか、前衛とかリアリティとかのゾーニング

・誰もが虫武さんをゾーニングマッピングしたがるが、うまくいかない。

  ・乱暴な決めつけを核にした歌、描写に徹した歌など、多様な作品があるので、安易なゾーニングからするりと逃れるから。

  ・別のジャンルで鍛えられたセンスを持ち込むことで、閉ざされた歌壇に外の空気を輸入している。

  〇読者にかわいがられるということ

  ・好意的に読まれすぎるのはあやうい。

  ・かわいいだけにしては作り込まれていて巧み。

  〇商業として生き抜くということ

  ・別ジャンルの取り入れ、愛唱性の高さ、かわいがられる作者像など、歌壇の外にひらかれていく可能性のある歌集。解説の石川さんも、それを念頭に置いて、内向的な作中主体が他者を獲得するストーリー(短歌に親しまない人も味わえる)として編まれた面を解説で強調されたのではないか。

  ・ゾーニングされないのが虫武さんの強みだが、結社に入らず、ゾーニングもできなければ、商業として生き残るは修羅の道。どう切り拓いていくか。

 

会場から(道券の印象に残ったもの)

 〇加藤治郎さん

  ・リアリティの虫武、前衛短歌(塚本邦雄寺山修司、春日井建)とは違うところにいる

  ・しかし、春日井建の影響の窺える歌もある

  ・美意識、美学の方面へと進む可能性を秘めた歌人

 〇楠誓英さん

  ・モノへの仮託がしっかりとしている

  ・若い人にありがちな「で?何が言いたいの?」感がないのが最大の魅力

  ・主題「だめな自分」に寄りすぎているが、外界へタフに開かれている。

   この主題以外の歌に次の展望がある。

  ・自意識により過ぎない自由さも魅力

 〇本多真弓(響乃)さん

  ・ストーリーを強調しすぎないところに、読者への信頼がかんじられる(ここまで言えばわかってもらえるはず)

  ・読者が立ち止まって考える時間が長い歌が多い

 

 羽虫群 批評会 ふんわりレポ2も書きました。つづく!

ラ・ラ・ランドよかった。

ラ・ラ・ランドのラスト「あり」派と「なし」派】

 私のラ・ラ・ランドの初見の感想は、「よかった。2人の夢も叶ってハッピーエンドだった。あったかもしれない輝かしい恋の様子も切な美しくて最高だった」だった。

 しかし、ラ・ラ・ランドのラストについて、私の周囲では「あれはない。つらすぎる」という声が上がった。「なし」派の人の言い分としては、「2人が結ばれてハッピーエンドでいいじゃないか、なぜわざわざ引き裂くんだ」、「ずっと愛してると言ったミアはなぜ自分の言葉を裏切ったのか」、「セブくん可哀想」といったものだった。

 この違いはどこからくるのか。

 

【「青春」とその終わりを描いたラ・ラ・ランド

 ラ・ラ・ランドでは、叶う可能性の少ない夢を追い、人々は「スターの街」に集まる。「勇気か狂気か、これからわかる」、「夢見る愚か者に祝福を」、「群衆の中のだれかが私を見つけてくれる」、繰り返し歌として語られるこれらの言葉がそれを物語る。

 ここでは、「夢見る愚か者」として目標に向かって打ち込む期間を「青春」と呼んでみたい。夢を追うことを諦め、あるいは夢を達成することで夢を「追う」必要のなくなった時、「青春」は終わる。

 セブはミアより先に自分の夢(伝統的なジャズを再び盛り上げ、自分好みの曲が演奏される店を開く)をあきらめ、ロックバンドのピアニストとしての道を歩み始める。セブの「青春」は、実質ここで終わっている。一方、自分の夢を諦めきれないミアは、「あなたの夢はどうなったの」と食って掛かる。これは「青春」から抜け出た者と、まだ渦中にある者の感覚の相違があらわになるシーンと言える。

 結局、ミアはセブの力を借りて、自分も俳優としての仕事を得る。セブとよりを戻して元の生活に戻りたいミアに対し、セブは「今は仕事に集中しないと」と告げる。ここでは、ミアはまだ「青春」の中にいるつもりだが、セブはそれをやんわりと否定し、ミアの「青春」を終わらせる。また、2人の関係が終わる時と、彼らの「青春」の終わりはぴったりと重なる。これは、2人で暮らした日々は、輝かしい「青春」そのものだからだ。彼らにとっては、互いが互いの「青春」の象徴だった。とすれば、ミアの最後の「ずっと愛しているわ」は、セブの恋人で居続けるという意味だとは言い切れなくなる。ミアが愛していたのは、セブにまつわる「青春」の日々そのものだったのではないか。

 そう考えると、最後のシーンはうつくしい「青春」への懐古以外の何物でもない。大成功をおさめ、他の人と結ばれたミアは、偶然セブの店に立ち寄り、2人は5年ぶりに再会する。その時に流れる回想のような映像は、2人の恋人時代を振り返ったもののようだが、細かいところがよりロマンチックに改変されている。これは、一般的に後から振り返った若い頃の思い出が、より美しいもののように脚色されることと無関係ではないだろう。

 回想が終わった後、店を去るミアは一瞬、振り向いてセブのほうを見る。彼女にとって、セブは輝かしく楽しかった「青春」そのものだ。セブはと言えば、振り向いたミアをかえりみることはない。「青春」時代に未練のあるミアと違い、セブはもう、「青春」から決別しているからだ。

 

角田光代が描く「青春」を断ち切ったときにあらわれる希望】

 私がラ・ラ・ランドを観ているあいだ、2人の夢は叶わないだろうと心の準備をしていた。夢を諦め、すべてを失った2人が、ラストではそれでも生きていくしかないと決意を新たにするのだろう…そう思ってなりゆきを見守っていたため、ミアが俳優として成功をしたのも、セブが店を開いていたのも拍子抜けだった。

 私がそのような鑑賞をしたのは、「薄闇シルエット(角田光代)」が念頭にあったからかもしれない。

 

私はそういった地点から点ではなく線を引っ張ってきていて、それをたどればいつでもそこに戻れると思っている。もう誰も、そんなところにはいないのに。(角田光代「薄闇シルエット」)

 

 この作品では、過去への未練が印象的に描かれる。「薄闇シルエット」の主人公のハナは、周囲に比べて自分だけが取り残されていくように感じている。自分が気に入らないと言って別れた元恋人は、ダサくなりながらも幸せな結婚をする。袂を分かった共同経営者は、ハナがダサいといって嫌った事業に手を出して成功をおさめ、結婚相手も見つける。一方ハナは、嫌なことをやらないための努力だけで年齢を重ねる。ここでは、ハナだけがダサくない自分でいたいという夢を追う「青春」のただ中にいるのだ。彼らは、いつまでもハナの思い出の中の彼らでいてはくれず、彼女を置いて前へと進んでいく。ハナはなんとか自分も前に進もうとするが、何度か手痛い失敗をし、それでも前に進むしかないと決意するところで物語は終わる。ここで初めて、ハナもようやく「青春」の終わりを迎えるのだ。

 「青春」を引きずる者に希望はない。輝かしい過去に戻りたいと後ろ髪を引かれながらも、断ち切って厳しい現実を受け入れ、そこで生きようと決意するとき、はじめて未来は立ちあらわれる。戻れないことは悲しいことではないのだ。戻れないことを受け入れ、前に進むことを決めた時、そこから見える景色はいつも薄闇に包まれている。闇が薄いのは、希望の光が差しているからだ。

 

ラ・ラ・ランドのラストが描いた夢の続き

 ラ・ラ・ランドのラストを見てつらさを感じるのは、セブとミアの過ごした「青春」があまりに輝かしく、そこに戻れないのが悲しいからだろう。ただ、その輝かしさだけに着目して、つらいラストだと断じてしまうのはもったいない。あれでよかったのだ。美しい過去を、「青春」を、かなぐり捨てて進まなければ、2人は夢を掴めなかった。美しく脚色した過去をゆっくり思い出す余裕があるのがその証拠だ。彼らはいま、夢の続きを生きていて、戻れない過去をほろ苦く思いだせるほど幸せなのだ。

自己紹介

はじめまして、道券はなです。

ぴーたーぱん子とかいちのせとかだったこともあります。

短歌では、未來短歌会とかばん関西に参加させていただいています。

小説では、へんりさんとごきげん創作ユニット「あっぱれ!」をしています。

 

Twitterによくいるのでこちらもぜひ。

道券はな @peter_pan_co

あっぱれ! @henrypanko14

 

やったこと

(ぱん子名義)

・2016年9月「あっぱれ!vol.1(あっぱれ!)」発行

(いちのせ名義)

・2013年4月「瞰空」発行、参加

・2011年11月「出版甲子園」決勝大会出場

 

載せていただいたもの

(道券はな名義)

・2017年5月「破調アンソロジー藪(発行:とみいえひろこさま)」

・2017年5月「とり文庫vol.4(発行:千原こはぎさま)」

・2017年8月「いくらたん部誌「夕化粧」二周年記念号」

・2017年8月「Re:短歌(発行:千原こはぎさま)」

 

(ぱん子名義)

・2016年12月「山羊座ネプリ角笛(発行:知己 凛さま)」

・2016年11月「おいしい短歌(発行:千原こはぎさま)」

・2016年10月「ハロウィン短歌集HALLOWEEN JUNKIES3(発行:月丘ナイルさま)

 

(いちのせ名義)

・2014年3月「Kitchens'(発行:詩架さま)」