はやくおとなになりたい

短歌とぶんがくと漫画を愛する道券はなが超火力こじつけ感想文を書きます。

「CERTIFICATE2018」よかった


2018年に短歌を始められた方々によるネットプリントCERTIFICATE2018を拝読しました。生まれ年ネプリや星座ネプリは様々な歌歴のひとが集まって楽しいですが、短歌デビュー同期で集まるのは同級生感があって、これもまた楽しそう…と羨ましくなりました。

以下、気になった歌を、拙い評ではありますが、一首評させていただきます。




一行も読まれることのないままに僕の旅行に連れ添う文庫 真島朱火


    楽しいけれど不安な旅に、たとえ一行も読まなくても、同行者として本を携えていく…そんな作者の本への愛情が、「連れ添う」から窺えて魅力的でした。文庫本のたよりなさも一首の若々しい印象を助けています。一首全てが結句の「文庫」にかかる頭の重い構造ですが、三句「ままに」で一息つける点や、滑らかな韻律のおかげで、冗長な印象にならずに巧みだと思いました。



むかしむかしうらのあきちにありおというものができるといわれておった たろりずむ


 アリオができたら雇用も拡大して地域経済が活性化するし、おしゃれな服も買えるしと当時わくわくしていた心情も、今になってはすっかり消え失せたそんな諦念と、それを乗り越えた一種の強がりを、茶化すような昔話口調によって想起させる手腕が印象的でした。アリオをひらがなにして今の人は皆アリオを知らないような印象を与えたり、裏の空き地というやや不鮮明な提示をすることで昔話感を強めたり、芸が細かいと思いました。



なんにでも置いてかれてく院内のオルゴールもあいみょんになって ツマリ


 リラックスして待ってもらうために、少し前に流行ったJPOPをオルゴール調にアレンジして流すよくある光景ですが、あまり意識しない。これを捉えた感性が鋭いと思いました。また、最新のアーティストだと思っていたあいみょんさえ「少し前に流行ったもの」扱いされているという気づきが、自分が置いていかれているという初句二句の感慨に、大変な実感を持って響いている点が魅力的でした。四句結句の破調や「置いてかれてく」という幼い口調は、動揺する心情の表れなのかなと思いました。



火を止めて味噌をとかせば暮らしとは余熱のなかを生きていくこと 若枝あらう


 火を止めて味噌をとかすのは日常のありふれた動作ですが、そこに三句以降の気づきを得るのが細やかだと思いました。かつて煮立っていた鍋の火を止め、その余熱で味噌をとくように、暮らしも、大きな出来事が時折あったとしても、普段の日常はその余波を受けて平凡に進んでいくということを思いました。味噌をといているときに鍋の余熱を思うこと、そこから暮らしの余熱的側面に飛躍していくところに技巧とセンスを感じました。



待つことに慣れるしずけさ暦にはもう南天が描かれている 榎本ユミ


 初句二句に、待つことへの寂しさや、それを諦めて凪いだ心情を想起しました。「しずけさ」に、物理的な音の無さと待つ相手からの音信の無さがかかっているようなところも好きでした。三句以降はカレンダーに描かれた南天の鮮やかな色味にはっとさせられると同時に、もう冬になっていたこと、それほどまでに長く待っていたことに気づいた主体の心情が思われて魅力的でした。




心情的にはすべての歌について熱く語らせていただきたかったのですが、紙幅の関係上このような形になりました。すてきなネプリをありがとうございました…!




オワーズライナス読書会ゆるゆるレポ2

《高田ほのか『ライナスの毛布』について》

 ですます調が多用されている連作は下着売り場を舞台にしており、下着売り場の店員の過剰な丁寧さを揶揄した表現のようにも思えたため、私はそれほど気にならなかった。

 

「こちらは昨日入荷したての新作でクロワッサンほどの重さなんです」/「夏を呼ぶ」高田ほのか『ライナスの毛布

 

 下着の重さを「クロワッサンほどの」なんて言われると、「そこまでおしゃれに言わなくても」とちょっと身構えてしまう。店員さん自身は、さも聞いている方が喜ぶだろうと思って言ってくれており、違和感として取り沙汰すのもはばかられる。日常に空いている穴というか、ちょっと不気味なところを突いた歌だと思う。台詞だけで一貫したのが成功していると思う。

 下着を買う連作という文脈で捉えるからクロワッサンが下着の重さだとわかるが、これ一首だけだと何の重さなのかわからない。しかし、わからないほうが、この不可解さ、不気味さを引き立てて深い余韻を生むかもしれない。

 連作や歌集というまとまりによって魅力を増す歌が『ライナス』には多かったが、こういう一首単体で響く歌が私は好きなので、こういう歌ばかり目についた。

 読書会では、歌集全体と少女漫画との関連に言及する発言が多かった。少女漫画のような心情の移ろいを表現するのに、歌集や短歌は果たして最適なメディアなのかなと考えさせられた。

 

裸足だわ わたしの床をあの人の足がくっつき離れくっつく/「メリーゴーゴーラウンド」ミカからシュウへ 同

 

 部屋に招き入れた相手が靴下を履いていないことに気づき、剥き出しの皮膚が粘り気をもってフローリングに触れる瞬間を繊細にとらえている。初句の独白の後、一字空けで気づきにしばし浸り、そこからさらに観察を深める。くっつき離れくっつくという反復に、執拗に観察している感じがよく出ている。 

 少女漫画の特徴は、過剰な恋愛への期待や憧れにあると思う。一見、「メリーゴーゴーラウンド」は、そういった少女漫画の過剰な恋愛への期待をなぞっているように見える。しかし、それにしてはこの歌の二句~結句は、あまりに描写に徹しすぎている。少女漫画では、主人公の家に通された異性の踵が大写しになることはない。

 「メリーゴーゴーラウンド」は連作なので、少女漫画をなぞりながらも、結局は短歌的な描写に頼る。こういった歌は、短歌で少女漫画をやろうとした作者本人のまなざしや存在を、色濃く読者に伝えてくる。

 こういったところから、私は「メリーゴーゴーラウンド」は、少女漫画×短歌の連作というよりも、登場人物という他者に憑依して詠んだ歌集という点で、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し』や、刀剣乱舞の二次創作短歌『歌の拵え』等の二次創作短歌に近いのではという気がした。一首独立性という話があったが、こういった、歌集や連作全体としての「仕掛け」を理解した上で味わう短歌を、是とするか非とするかというのは、個人の好みや短歌との向き合い方に寄るだろうなと思った。

 

 つづく!!

 

『ベランダでオセロ』よかった2

《佐伯紺さん「本棚」》

 

本編を終えてから観る予告編みたいにきみをわかろうとして/「予告編」佐伯紺「本棚」/『ベランダでオセロ』

 

 もうあらすじが全て理解できたうえで、改めて予告編を見る。答え合わせのような、結論があってそこにいたるまでの過程を繋いでいくような感触だ。初句から三句まででその感触を描きながら、四句目頭、句割れで唐突に、「みたいに」とそれが比喩であることが示される。だまされたような気持ちになるが、最後まで読み進めると、それが近しい人への理解の道筋を示した比喩だったということがわかる。

 結句はいいさしで、「わかろうとして」どうしたのかが明示されていないが、そのために広がりというか深みが生まれている感じがする。そんな理解の道筋を、否定的に内省しているのか、肯定的に採用しようとしているのか、私達にはわからない。本編後の予告編も、人によって好みが分かれる。取り合わせが絶妙だと感じた。

 「本棚」は、こういう、複雑な心情をなにか他の動作や状況に仮託して読む手法が印象的だった。

 

怒りには至らなくても 溶きほぐす卵にちゃんと終わりがほしい/「傘にならない」同

 

 「怒りには至らなくても」存在するかすかなわだかまりがあり、初句二句の言いさしの後の空白が、それを改めて思案するような時間の「溜め」になっている。空白の後はそのわだかまりを捉えなおしたような、代替行為の提案のような印象だが、「これで完成、終わり」と思い切れない溶き卵という曖昧な動作に明確な終わりを求める、なにかはっきりと白黒つけたい気持ちのようなものが、空白の前のわだかまりに、これ以上ないほど嵌っているように見える。さしはさまれた「ちゃんと」に、確かな手触りを求める心情が表れているのも魅力的だった。怒りってしんどいけれど、そのしんどさに負けてしまわず、ちゃんと終わりをほしがる主体は、しんどさとむきあって前向きにこれからを捉えようとしているようにも感じられた。

 こういった、楽しいだけとか悲しいだけではない複雑な心情を描きながら、それでも希望に向かっていくような姿勢が、この連作には通底しているように思われた。

 また、言葉へのこだわりというか、言葉自体を読む歌も印象的だった。

 

越えるって字を書くときは七画目にちからを込める 越えられるように/「予告編」同

 

 三句の字余りがねばりつくような力強さを出していて好きだった。ここで溜めながらも、初句から四句目「ちからを込める」まで一息に読ませる。文をここでいったん落ち着け、空白の後、結句で自分が「ちからを込める」理由を明かす。種明かしのような手つきだが、結句には主体の祈りのようなものが感じられる。何を越えたいのだろう、明示されないことで、その切実さがより深くなる。「越」という一字をこまやかに観察した感性が好きだった。また、それを書いている自分の心情まで丁寧に追い、スケッチをした技法? が好きだった。

 

『男たちを信じられない、というのはわかるよ。それに家族っていうのはもともと嘘から始まってるし、二人の人間が信頼し合えるなんていう全く馬鹿げた考えに基づいてるんだからね。だけどよ、友だちを除いたら、いったいこの世で誰をあてにできるっていうの?あたしの辞書ではそういうことになってるんだ』

豆から挽いたコーヒーを飲むどしゃぶりって言ってみたくて土砂降りを待つ/「夜道」同

 

 豆から挽いてコーヒーを飲む。初句七音は、急かされてインスタントコーヒーを飲むのではなく、時間をかけて淹れたコーヒーをゆっくり飲むような、ゆったりとした時間の長さを感じさせる。「どしゃぶり」という言葉の音の響きに親しみ、「土砂降り」を待つとき、主体のなかで音の響きと意味は完全に乖離している。その音へのほのかな愛情が繊細に描かれている。

 ジェイ・マキナニー江國香織からさらに引用したと注釈された詞書がついているが、「あたし」のこういうおしゃべりから、主体が豆から挽いたコーヒーを飲むことで、「どしゃぶり」という言葉の音の響きを愛することで、土砂降りを待つことで、遠ざかってひとりになるような感じも受ける。

 

タフだって言われてたふという響き 枕に顔をうずめる感じ/「タフ」

                          

 越、どしゃぶり、タフ、何気ない言葉にここまでこだわり、観察し、愛情深く自分の心情を重ねてゆく感じ、私は一つひとつの言葉にここまでこだわってあげられるのだろうかと胸を突かれたような気がした。短歌していると言葉が好きって大事な要素だと思うけれど、そのなかでも佐伯さんはなんだか群を抜いている感じがした。

 

 

『ベランダでオセロ』よかった1

 大阪文学フリマで入手した『ベランダでオセロ』、大好きでした。連作ひとつずつ感想挙げさせていただいて、最後に全体をまとめられたらいいなあ

 一首評も連作評も不慣れなので 全体的にこう ゆ ゆるしてください ……

 

《御殿山みなみさん「テン・テン」》

 

愛知名古屋 出張の帰り

だとしてもぼくはこうして錯覚で短く見えるほうの棒です/「半纏のひも」御殿山みなみ「テン・テン」/『ベランダでオセロ』

 

 唐突な初句の「だとしても」が何に対する逆接なのかわからないが、何か相手がいて、その相手の言ったことをゆるく否定しているような、不思議な広がりがある。二句の「こうして」も何を受けているのかよくわからないけれど、なんとなくゆったりと「ぼく」に視線を集めるような「溜め」になっているような気がする。「錯覚で短く見えるほうの棒」は、同じ長さなのに、端についた「く」の字が内開きになっているせいで、つまり自分のせいではないところで短く見えてしまっている棒で、なんとなく不条理で歯がゆい感じがする。本来の長さは一緒なので騒ぎ立てるほどでもないし。「ぼく」の微妙な劣等感を言い当てる、絶妙な比喩だと思う。初句から結句にかけて、散文のように一息に流れるリズムも、力んだ感じがしなくていい。

 ここではほかにも、繊細な「ぼく」が登場する。

 

喫煙席もがまんできるしはにかみも得意なぼくの居場所がほしい/「典型」同

 

 喫煙席もがまんできる、がまんできずに席を立ってしまう人よりも忍耐があって立派だ。ただ、立ってしまう人のほうが生きやすいかもしれない。はにかみも得意、可愛げがある。ただ、はにかまないで生きる人のほうが得かもしれない。自身の立派さや可愛げを挙げながらも「ぼくの居場所がほしい」と孤立感を募らせてしまうのは、「ただ」の方の生き方と比べて損をしているという思いがあるからだろうか。有益でなさそうな長所の例が絶妙だと思った。「も」でつないでいるところが、こういった例がいくらでも出て来そうな感じを出していて、「ぼく」の孤独の影を深めている。どこか幼児が駄々をこねているような切迫感も。初句七音も、耐えかねて思わず口に出したような、強い心情の突き上げが見えて魅力的だ。

 一方で、作中の「ぼく」はそんな「ぼく」をゆるし、救おうとする。

 

あっぷあっぷの肺は認めてあげたくてマンガでわかるほうを選んだ/「シニフィエ店長」

 

 あっぷあっぷなのは肺だが自分自身でもあるのだろう。「マンガでわかる〇〇」と、「〇〇入門」が並んでいたら、より易しいマンガのほうを選ぶ。あっぷあっぷであることを認め、許し、あっぷあっぷな自分がより生きやすいように。

 そして、そういった優しさは、他者にも向く。

 

大阪御殿山 町民祭り

色落ちのはっぴは町にゆるされてださいフォントのビンゴ大会/「半纏のひも」同

 

 着古した色落ちのはっぴはみっともないが、町の人はみっともないから買い替えろとも言わず、それをゆるして(着て)ビンゴ大会を開催する。そのビンゴ大会もフォントがださくてぱっとしないが、そのだささ自体がはっぴへのゆるしにも見える。

 

朝のひかりにゆるされやうとゆるみゆく添乗員の私語ここちよし/「ちよつと良いバス、良い添乗員」同

 

 朝のひかりにゆるされようとして、ゆるんでいくのは自身だろう。バスに乗りっぱなしでこわばった身体、生きていくなかでの閉塞感、そういうものがゆるみ、ゆるされる。そして、下句の添乗員の私語をここちよいと言って、今度は自身が他人をゆるす。

 ほのかな劣等感や、他者へのどこかひねた観察を描きながらも、読んでいてどこか心地よく切ないのは、そういうやさしさ、ゆるしが通底しているからなのかなと思った。

 ゆるくとかゆったりとかなんとなくとか微妙とか、この連作を読んでいると、そんな言葉ばかり浮かんだ。あまり言葉を詰め込まず、難しい言葉も使わない。それでも、描かれている心情は鮮やかで、捉えられた景色は解像度が高い。素朴な動作を描いた歌や、比喩を中心に据えた歌も魅力的だった。

 

乗客を一掃すれば終バスはきのうを載せるだけののりもの/「典型」同

焼香の作法をぬすみ見るやうに座席のたほしかたを学べり/「ちよつと良いバス、良い添乗員」同

歩くときの視界のゆれのなんわりが世界じたいの不安なんだろう/「UFO昇天」同

オワーズライナス合同読書会ゆるゆるレポ1

 「オワーズライナス合同読書会」に参加しました。白井健康さん『オワーズから始まった。』(以下『オワーズ』)、高田ほのかさん『ライナスの毛布』(以下『ライナス』)の読書会で、パネリストに彦坂美喜子さん、𠮷岡太郎さん、江畑實さん、尾崎まゆみさんがいらっしゃいました。都合のいい(なんとなく理解できた)ところしか聞いていないのと、いつものようにだらだら長くならないようだいぶ枝葉を切ったので、もしかしたら大意が異なるかもしれませんが、ご容赦ください。また、こっそり教えていただけるとありがたく思います。ゆるゆるレポートですみません。

 最初に、加藤治郎さんが「『オワーズ』も『ライナス』も、フィクションとリアルを行き来するところに共通点がある。それは歌集ならではのこと」と挨拶され、読書会が始まりました。

 

〈『オワーズ』について〉

 彦坂美喜子さんは、『オワーズ』について発言される前に、ご自身の批評の軸として

 1、言語の同時代性、時代の言語の位相を表している

 2、現代に即したテーマ性が、普遍性を持つ表現の世界を獲得しているかどうか

 の2点を挙げられました。そのうえで、2について『オワーズ』は単なる時事詠(その出来事が収束されれば終わり)に留まらず、普遍性を獲得しているという点を指摘されました。モチーフである口蹄疫による殺処分を、合理的だがしかたないよねで済まさず、人の死や自らの命の実感を通じて、牛ならいいのかというところに広げているところに特徴があると述べられました。

 また、一首評のところでは、

  •  牛の死のにおいとコーヒーの湯気など、1首のなかでの対比のあざやかさ
  •  言語表現による詩的実験(片方のみのパーレンで何らかの効果をもたらそうとするなど)
  •  一見ありえなく見えるがあるかもしれないぎりぎりにおしとどめられたイメージ(腐肉ー芳香、誠実なけもの)
  •  イメージの敷衍(眠りのイメージから砂丘の模様になだらかに移行するなど

などについて言及されました。

 

 𠮷岡太郎さんは、「われ」の少なさに言及されました。ドキュメンタリーと短歌がかみあっている歌として野樹かずみさんの『この世の底に』を挙げられ、それも「われ」がほとんど出てこないということを紹介してくださいました。野樹さんの場合は、見たものを短歌に落とし込んでいくうちに、最後に「われ」がふと叙情してしまう瞬間があり、そこを捉えているそうです。『オワーズ』は、見たものを淡々と描いているものの、「われ」はあくまで叙情せず、客観的事実のように描かれているそうです。

 また、耳たぶの血を吸う蚋や、消毒されると感じる黙祷、Re mailをする自分など、自分のことなのに外から見ているような視線も印象的だと述べられました。

 

〈『ライナス』について〉

 江畑實さんは、2冊の歌集の共通点として、価値観の敷衍化を挙げられました。『ライナス』は有名性と無名性の価値観の敷衍化、『オワーズ』は人間と動物の死生観の敷衍性がそれぞれ特徴的なのだそうです。

 加藤氏の解説から、ミカ、シュウ、ユウの3人それぞれの視点から三角関係の恋愛模様が展開する「メリーゴーゴーラウンド」という110首の連作と、詩人ふたりが掛け合いする体裁の「水銀傳説」との共通点に触れ、漫画と文学の価値観が敷衍化していると述べられました。

 また、高田さんのあとがき(切なさを描いた少女漫画はご自身のライナスの毛布である)や、ご自身の少女漫画体験(竹宮恵子風と木の詩』)から、少女漫画の切なさの正体はヘテロ(異質)セクシャルに至るまでのホモ(同質)セクシャルのせつなさ、はかなさにあるのではと述べられました。

 作品自体については、「メリーゴーゴーラウンド」は、「水銀傳説」とちがって架空の人物を用いていることから、精神的ドラマを自在に作ることができた点に言及されました。また、せつなさ、はかなさを活かすために旧かなを使ってみてはとの提案や、歌集全体の印象とは異なる一首性や私性に富む連作への指摘もありました。

 

 尾崎まゆみさんは、コミックの作者名とタイトルを一首ずつにつけた連作について、コミックへの作者なりのリスペクトが見えるが、なくてもじゅうぶん魅力的な連作として成立していると述べられました。また、唇というからだのパーツからグラスの水滴に視点が移る歌など、パーツの描写の巧みさ、「喉に力をかき集める」という表現から表情も見えるような身体感覚の鋭さ、テレホンカードやイズミヤといった物使いの巧みさ、比喩としてひかりが多用される、作品全体に通底する向日性についても言及されました。

 そのうえで、コミックから入ったのは話題性の上ではすばらしく、時代や自分が欲する手法を用いていると述べられました。また、パーツや身体感覚、もの使いの歌をもっと広げてはとの提案がありました。

 『オワーズ』も向日性がある。『オワーズ』はいのちに対する無力感と対比して、自分で自分のからだやいのちを確かめる切実な手つきが感じられる。との言及もありました。

 

〈パネリストから〉

 江畑さんから、『オワーズ』と『ライナス』の光は全く別物で、向日性とひとくくりにするのは危ない。『オワーズ』は闇のような光で、口蹄疫から原発事故の除染区域についてまで視点が及んでいる。自分や人類の罪深さ、命を奪ってしまった罪深さは、あとがきにも表れている、との指摘がありました。

 尾崎さんは、『オワーズ』の、いのちを奪ってしまったことに対しておしつぶされそうなとき、あきらめたり、しかたないと言ったりせず、客観的に見つめ、自分の体を通して確かめる、そういったところに救いを見出そうとする態度のことを自分は向日性と呼んだ。とのべられました。

 𠮷岡さんからは、『オワーズ』は、口蹄疫について勉強してほしい、わかってほしいといった願いではなく、ただ体験を投げ出しているように見える。そこが特徴で、だからこそ迫ってくる、との意見がありました。また、『ライナス』のですます調について、ですます調は四人称(会話する一人称と二人称、その会話に出てくる三人称、それを外から見ている四人称=読者)に向けられた語調で、そこに乗れなければ拒絶される恐れがあると述べられました。また、漫画に関する歌にはですます調が用いられていないという発見も報告されました。

 江畑さんは、「ですます調は会話なので、一首独立性が守れない」と述べられました。尾崎さんは「一首独立性にはさまざまな意味があり、悪い意味では歌集のなかで一首だけ浮いてしまっているときに使われたりする」と指摘されました。

 

つづく!

 

「未来のミライ」よかった。

【家族史の物語】

 TVドラマ「あまちゃん(脚本:宮藤官九郎)」、ガルシアマルケス百年の孤独』、桜庭一樹赤朽葉家の伝説』……どれも三世代、もしくはもっとたくさんの世代を跨いで、一族の興亡を描いた物語です。

 アニメーション映画「未来のミライ」は、甘えん坊のくんちゃんが妹の未来ちゃんを妬んだり憎んだりしながらも、未来のミライちゃんに会うことで、未来ちゃんのよきお兄ちゃんに成長していく……というあらすじです。しかし、物語が進むにつれ、くんちゃんは、幼い頃の母親に出会い、若かりし頃の曾祖父に出会い、家族の歴史に触れてゆきます。そして、未来のミライちゃんの、「小さな積み重ね」が綿々と受け継がれて私達につながっている、という指摘が、この作品のクライマックスに据えられています(細かい言葉はうろ覚えです……すみません……)。

 前述の三作品と同じく、「未来のミライ」は、一族の歴史、家族史の描写が印象的な作品でした。そういった作品として見ていくと、「未来のミライ」の特徴的な点として、次の2つが挙げられます。

 1、家族史の時系列が細切れであること

 2、家族史を語る動機が弱いこと

 

【家族史は主題か、演出か】

 1に関して、『百年の孤独』、『赤朽葉家の伝説』は、どちらも時系列順に物語が進んでいきます。祖母、母、私、というふうに、時代がどんどん進んでいくわけです。これは、因果関係も明らかだし、自然で大変理解されやすい。『赤朽葉家』は、現代を生きる私の世代で最後に祖母が若い頃に観た決定的な予知の内容が明かされるなど、サスペンス風の仕掛けが施されていますが、これも全体の構成がシンプルなぶん、捻りとして効いています。

 一方「あまちゃん」は、「未来のミライ」と同じく、現代を生きる主人公が中心に据えられていて、祖母や母のエピソードは挿話として登場します。これは、あくまで作品の主題が主人公の成長や成功にあって、家族史的な側面は、これを補強する演出としての意図が強いからだと想像されます。「あまちゃん」の主題はあくまでアイドルを目指すことで成長するアキの姿と、成長したアキが母親や祖母などの精神的な支柱になって、彼女らが生きる地方の村の希望となっていく様子です。この物語を補強するために、アイドルを目指すも夢破れ自棄になった母親の姿や、海女として村を支え続けた祖母のエピソードなど、家族史的な描写が必要となったのでしょう。

 そうやって見ていくと、「未来のミライ」の主題は、くんちゃんの兄としての成長のようにも見てとれます。しかし、たとえば戦火から命からがら逃れ、戦後逞しく生きていった曽祖父と、それを愛情深く受け止めた曾祖母のエピソードは、あまりに奥深く、演出として処理してしまうにはもったいない。主題が弱いとは言いませんが、幼い子ども向けの易しい主題と、歴史と人間の奥深さへの理解を要する重厚な演出は(それを納得させられるだけの工夫がないこともあって)、ややアンバランスな感じがしました。

 

【他人の家族史、好きですか?】

 話は飛ぶのですが、たとえば私たちは、急に他人が自分の家族のことを語りだすと、怯んでしまうことがあります。あまり親しくない人からの年賀状に子どもの写真が載っていたときに時々感じる、あのなんとも言えない気持ちがそうです。一方で、NHKに「ファミリーヒストリー」という番組があります。芸能人の方の依頼に応え、番組が芸能人の方のご家族(曾祖母だったり、大叔父だったりと様々ですが)の生涯や交遊を辿り、その方に繋げていくという内容です。依頼人の知らないご家族の秘密が解き明かされていく過程はスリリングで、自分の人生には全く関係がないはずなのに、なぜか手に汗握ってしまいます。

 他人の家族史を覗くのは、時におっくうで、時にスリリングです。自分の状況と重ね合わせることがつらく、とっさに退けてしまうこともあれば、繊細な問題に土足で踏み込む快感を伴う場合もあります。家族史を扱う作品は、こういった受け手の二律背反する感情に、良くも悪くもさらされます。この時、おっくうがられないために必要なのが、家族史を語る動機です。

 

【家族史を語る動機】                                                              

 2に関して、『百年の孤独』は作品の主題そのものが家族史だったので、少し例外かもしれません。家族史の物語を読みたくない人は、この作品の読者として想定されていないからです。『赤朽葉家』もそうですが、これはさらに捻ってあって、祖母の代、母の代に、それぞれ謎をちりばめた構成になっています。読者は、その謎の真相を知りたいというサスペンス的な没入の仕方で、一気に家族史を読み進めていきます。家族史を語るのは、同時に謎を解いていくことでもあるわけです。また、「あまちゃん」は、主人公がアイドルを目指す上で、また家族の一員として両親や祖父母を見つめる上で、必要に迫られて家族史が描かれていきます。

 一方、「未来のミライ」は、家族史が語られる動機が弱いように感じられます。くんちゃんの成長を後押しするために家族史が語られているのですが、あまりに自然に、あまりに美しくさしはさまれすぎているのです(その自然さを支える映像美や、自然な手つきは鳥肌ものでした)。また、主人公が幼すぎるがゆえに、自分で家族史を辿っていくことを選択できない。彼の成長を促すために語って聞かせる「誰か」も存在しない。そのため、動機がわかりにくくなっているのです。

 SNSでの酷評は、ここが原因ではないかなと思います。他人の家族史を目の当たりにする時、強い動機を用意され、心の準備ができていなければ、人は怯んでしまいます。その怯みを強く感じた人が、この作品をこれ以上受け付けられないと感じたのかもしれません。

 

【でもよかった】

 この作品を私が物足りなく思ったのは以上の2点でしたが、予想していたよりはずっと面白かったです。くんちゃんに示されたお兄ちゃん像、幼いくんちゃんが達成するには厳しすぎないか? とか、もっとみんなくんちゃんのこと見てあげて……とか、はらはらする面、納得できない面もありましたが、私は子育てをしたことないので経験者の方にしかわからないこともあるかもしれないし、もやもやして言語化できない部分もあるし、ちょっと今は、そのへんについては何とも言い難い感じです。

 ただ、母親にも、父親にも、曽祖父母にも物語があって、それぞれに一筋縄ではいかない人生を生きて、それが連綿と繋がって、くんちゃんになる。重厚で壮大な物語が、一人の甘えん坊の男の子に収束する手際は、見事だったと思います。予想を大きく外れる展開で、それがなんだか快感でした。ありがとうございました。

 

 

ニューウェーブ30年 うろおぼえレポート3

道券なりに

 

参加にあたって、私は「私はニューウェーブなのか?」という問いを立てていました。

 

 岩波文庫の現代短歌辞典には「口語、固有名詞、オノマトペ、記号などの修辞をさらに先鋭化した一群」とあり(サイトで準備してくださった資料で読みました)、荻原さんは「短歌の基本的な要素について、歴史的に引き継がれているものが、現代の感覚ときちんと一致しているかを問うシンプルな姿勢から生じる作品群」と仰っています(これも資料で読みました、ありがとうございます)。

 この二つの定義から言うと、私は「作者=主体」読みに懐疑的かつ、完全新かな口語体かつ、自然な口語を追求するこだわりから定型をしばしば無視するので、両方にはっきりとあてはまります。そのため、事前資料を読んだ段階では「私もニューウェーブ」との結論を引っ提げて参戦してしまいました。

 しかし、お話を伺うと、「他の人がやってることとは違うことをする」、「理論化」などの新たな定義が加わり、私はニューウェーブじゃないかもしれないという疑念が生まれ、結局結論は出ませんでした。ニューウェーブの典型を踏まえた作風の方がおられるのにニューウェーブに入っていない現状というのも、こういった定義づけの問題にかかわってくるのかなと思いました。

 ポスト近代を考える際に近代を振り返ることが必須であるように、ポストニューウェーブを考える際に必要だからニューウェーブを考え直す、というのが目的なのかなと漠然と勝手に考えて参加したのですが、私としては、自分なりにニューウェーブの定義づけそのものからもう1度スタートしていきたいなと思いました。

 

 私はいつも作歌で新しいことをしたい、目立ちたい、と思っているのですが、真新しいことをするためには、もう真新しくないとされている現状を知らねばならず、しかし、現状を知る手がかりがつかめずにぼんやりと過ごしていました。そんななかで、ニューウェーブ、ライトバース、前衛短歌といったキーワードやその実情を知るヒントを、刺激的なシンポジウムを通して知ることができ、とても実り多い会でした。憧れの歌人の方々が活き活きと話されている姿を見るのもうれしく、明日からまた作歌をがんばろうと思いました。

 最後になりましたが、パネリストの歌人のみなさま、そして、大会運営をしてくださった歌人のみなさま、本当にありがとうございました。